白村江の戦い [Battle of Baekgang]
白村江の戦いとは、663年10月に朝鮮半島の白村江で行われた、倭国・百済と、唐・新羅連合軍との戦争のことです。
白村江の戦いの白村江の読みは、「はくそんこう」、または「はくすきのえ」「Battle of Baekgang」です。
660年、斉明天皇は、百済を助けるため、難波を発って瀬戸内海を西に移動し、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた、と通説では言われています。
It is commonly said that Emperor Kinmei left Namba and moved west in the Seto Inland Sea to help Baekje and moved to Tsukushi’s Asakura Palace to prepare for the war.
過去記事:大化の改新・乙巳の変(1)
過去記事:大化の改新・乙巳の変(2)
皇極天皇が重祚した斉明天皇は、661年8月に崩御します。
『日本書紀』によれば、斉明天皇崩御にあたっても中大兄は即位せずに称制したとなっています。
即位できない、つまり中大兄は実権を握っていなかったのです。
斉明天皇の失政は本当か
『日本書紀』の斉明天皇紀には、不思議なことがたくさん記載されています。
■斉明天皇元年
大空に龍に乗ったものが現れ、葛城山から生駒山の方に馳せて隠れ、西に向かって馳せ去った。
■斉明天皇元年冬
飛鳥板蓋宮に出火があった。それで、飛鳥川原宮に遷られた。
■斉明天皇二年
多武峰の頂上に、周りを取り巻く垣を築かれた。
天皇は工事を好まれ、土木工事が相次ぎ、掘った溝は後世に「狂心の渠」と批判された。
■斉明天皇六年
「蝿の大群が西に向かって巨坂を飛び越えて行きました」これは救援軍が破れるというしるしだろうとさとった。
■斉明天皇七年5月
朝倉橘広庭宮を作る際、朝倉社の木を切ったため雷神が怒り、御殿を壊した。
このように、斉明天皇が批判的に描かれていることがわかります。
そして、百済救援軍が負けることが噂されていたこともわかります。
無謀な戦に日本を貶めたという戒めでしょう。
しかし、斉明天皇が批判されたのは本当でしょうか。
斉明天皇は重祚して即位した女帝です。
どちらかというと中継ぎの役割で即位したと推測できます。
この政権を支えたのは中大兄であり、中臣鎌足、または、古人大兄皇子であり、大海人皇子です。
どうも、百済救援は、中大兄と鎌足の独断で行ったという説があります。
それを阻止するために斉明天皇側が筑紫に向かいますが、斉明天皇の崩御で中大兄軍の阻止を断念します。
斉明天皇崩御で政権を掌握した中大兄と鎌足は、堰を切った水の流れのように、白村江の戦いへと突入していくことになります。
斉明天皇崩御が外交政策の転換期になったことは間違いありません。
百済が滅亡しても支援しなかった斉明天皇が崩御されてから、百済支援に舵をきっています。
斉明天皇崩御で中大兄が称制として実権を握り、その後天智天皇として即位します。
鬼室福信の使者がやって来て余豊璋を帰国させたいとの要請に対し、帰還させたのは中大兄です。
鬼室福信は、内紛により余豊璋に殺害されてしまいます。
これもいかにも怪しい行動です。
百済滅亡を早めたとしか思えない行動です。
白村江の戦い
663年8月27日と28日の2日間にわたり、唐水軍と倭国水軍が白村江(錦江)で激突します。
『日本書紀』によると倭軍は、戦況を見極めることもなく「我等が先を争うように進めば、敵自づから退却するだろう」という認識でした。
倭軍は、唐の大軍に左右から船を挟まれて攻撃され、大敗しました。
百済は内輪もめで戦力とはとても思えない状況、ましてや一度滅んだ遺臣であり、倭軍も寄せ集めの戦う気力も意思も乏しい戦力でした。
唐の大軍と戦えるほどの戦力は有していなかったでしょう。
そういう意味では、白村江の戦いというほど大げさなものだったのか疑問です。
その後も、唐との関係を修復しようとするように遣唐使が派遣され続けています。
日本としては任那が消滅し、騎馬民族の鮮卑系・扶余系に塗り替わりつつあった朝鮮半島よりも、唐との関係重視の外交政策をとるのは当然だったのでしょう。
白村江の戦いで、余豊璋は数人と船に乗り、高麗に逃げました。
大化五年(649年)春に鎌足に紫冠と増封がなされた記事があります。
そして、白村江の戦い後の天智三年(664年)『日本書紀』に鎌足が再登場します。
斉明天皇紀に鎌足は登場しません。
皇極二年(643年)に、百済の太子豊璋が蜜蜂の繁殖を三輪山で試みて失敗した記事が出てきます。
その直後、中大兄と鎌子(鎌足)の話が続いています。
これは何を意味するのでしょうか。
偶然でしょうか。
三輪山は神の住む山といわれ禁足地です。
神の山三輪山を冒涜し不吉な行為を行ったという意味で、祟りがあるということを示唆しているのでしょう。
あるいは、百済の王族が逆らったということでしょうか。
「白村江の戦い」戦後の倭国
白村江の戦いで敗戦し、天智天皇は、唐・新羅の攻撃に対抗するため、防御態勢の再構築および強化に着手します。
対馬・壱岐・筑紫などに「烽」(すすみ)いわゆる狼煙(のろし台)を築いたり、筑紫に水城という大堤を築いて水を貯めました。
北部九州沿岸には防人を配備します。
667年に天智天皇は都を近江京へ遷します。
この行為に人民は諷諫(遠回しに諌める)し、童謡も多く夜昼となく火事がありました。
どこから近江に都を遷したのでしょうか。
斉明七年(661年)、飛鳥(後飛鳥岡本宮)から難波(難波長柄豊碕宮)へ還都しています。
素直に考えれば、難破から近江に遷都したことになります。
斉明天皇に筑紫で討伐されそうになり、斉明天皇の崩御で称制しますが、難破に戻ったかどうか分かりません。
九州から近江に直接遷都したのではないでしょうか。
難破や飛鳥には入れなかったと考えることもできます。
調査する価値はあります。