吉野ヶ里遺跡で邪馬台国の石棺か!?

吉野ヶ里遺跡で未発掘の石棺が発見される

吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の西側にある日吉神社の移転に伴い、10年ぶりの発掘調査が行われることになりました。
2023年4月末、神社の跡地から邪馬台国時代のものと思われる石棺墓が発見されました。
2023年6月5日、石棺が開かれ報道陣に公開されました。

吉野ヶ里遺跡の所在地

吉野ヶ里遺跡は、佐賀県吉野ヶ里町と神埼市にまたがる脊振山地南麓から平野に伸びた丘陵にある大規模環濠集落跡です。
現在、特別史跡を国から指定され、国営吉野ヶ里歴史公園として整備されています。
それだけ歴史的価値の高い史跡であることが分かります。

紀元前4世紀頃、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、大規模な集落へと発展していきました。
吉野ヶ里歴史公園としてわかりやすくこの時代の特徴を再現していて、まさに卑弥呼のいた空間をイメージさせてくれます。
その中でも、甕棺墓列、石棺、土坑墓は約500基が発掘されていて、共同墓地として埋葬されたと思われます。
甕棺墓のひとつから人骨とともに前漢時代の銅鏡連弧文昭明鏡が出土しています。
吉野ヶ里遺跡近くの「三津永田遺跡」からは、素環頭大刀、流雲文獣帯鏡を含む漢式鏡が発掘されています。
その他、「二塚山遺跡」などの周辺遺跡からも漢式鏡が発掘されています。

甕棺内の人骨には、矢じりが刺さったもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いを感じ取れます。
しかし、3世紀末から4世紀の始め頃、吉野ヶ里の集落は突然途絶えてしまいます。

日吉神社の移転跡から石棺を発掘

2022年、北墳丘墓の西側にある日吉神社の移転に伴い、10年ぶりの発掘調査が行われることになりました。
2023年4月末、ここから邪馬台国時代と思われる石棺墓が発見されました。
2023年6月5日、石棺が開かれ報道陣に公開されました。

日吉神社はもとは吉野ヶ里遺跡の丘陵上に位置していました。
この丘陵上の神社敷地内では甕棺墓の石ぶたや弥生土器などが確認されており、甕棺墓を中心とする遺構が多く埋蔵している可能性が高いとされ、ここから東に約100m離れた位置にある北墳丘墓(ST1001)との関係性なども指摘されていました。
北墳丘墓からは、14基の甕棺墓とともに、有柄把頭飾銅剣やガラス管玉が出土しています。
しかし、日吉神社が鎮座していたことから神社敷地内では発掘調査が行えませんでしたが、2022年の神社移転で調査が可能になりました。

古来、神社が鎮座する場所は、その地域を支配していた王族の墓や、住まいであった可能性があります。

日吉神社の御祭神は、大山咋命(オオヤマクイノミコト)です。
大山咋命は、大年神と天知迦流美豆比売の子です。
比叡山の麓にある日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋命を祀る日吉神社(日枝神社)の総本社です。
大年神・大歳神は、スサノオノミコト、ニギハヤヒノミコト系の氏族と見られています。

石棺墓の開封から分かったことは次のとおりです。(2023年6月7日現在)

石棺墓は、縦1.7m、横3.2mで、見晴らしのよい場所で単独で見つかっています。

石ぶたの裏側に「×」の線刻が複数箇所確認できました。
線刻が施された石ぶたの発見は全国的には佐賀県の「瀬ノ尾遺跡」と「二塚山遺跡」に続き3例目で、棺の内側に向けて配置されたケースは今回が初めてだそうです。

もう一つの発見は、赤色顔料の痕跡です。被葬者の身分の高さを示唆します。

開かれた石ぶたの内部には土砂が埋まっていたため、副葬品の有無などを調べるための作業がこれから行なわれる予定です。

更に、わかったこと(2023年6月9日現在)

  • 長さ1.8m、内側の幅36cm、上下とも36cmなので、どちらが頭なのかは不明
  • 白色粘土、黒色粘土、両方使っている。
    両端に黒い粘土を多く使っている。
    甕棺を塞ぐための黒色粘土かどうかこれからの調査次第。
  • 36cmと幅が狭いので、大柄の人物ではない。
  • 箱式石棺墓という形式である。

更に、わかったこと(2023年6月13日現在)

  • 石棺内部に赤色顔料の痕跡が複数あった。
  • 石棺の底まで数センチまで到達したが、副葬品、骨などは見つかっていない。

石棺墓調査による今後の期待

石棺墓の石蓋が開けられたことで、今後の調査結果によっては、大きな歴史的意義となる可能性が出てきました。

副葬品(青銅の鏡・鉄剣、玉)の発見は有るのか。
人骨や歯が残っているのか。

副葬品の内容によっては、卑弥呼の墓である可能性も出てくるでしょう。

そして、発掘の最終段階でわかったこと(2023年6月14日現在)

  • 石棺の底に赤色顔料の痕跡があった。
  • 石棺の底に到達したが、副葬品、骨、歯などは見つからなかった。

2023年6月現在の結論を言うと、卑弥呼の墓かどうかは分かりませんでした。
そして、面白いのは副葬品が全く見つからなかったという事実です。
身分の高い人物のお墓であっても、石棺の内部に何も入れないという風習があったということでしょう。
吉野ヶ里遺跡が邪馬台国の中心であった可能性は無いとは言えませんが、私は九州の別の地域であると考えています。

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