邪馬台国と卑弥呼
邪馬台国とは、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国です。
中国の史書『三国志』魏書東夷伝倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』に出てくるのが邪馬台国です。
『三国志』には、65巻あり「巻三十 烏丸・鮮卑・東夷伝」の一部である倭人条を指しています。
魏志倭人伝と呼んでいる文書は、三国志全体の約0.5%にすぎません。
邪馬台国の読み方は、「やまたいこく」、「やまとのくに」、「やまいこく」などがあります。
女王の卑弥呼が約30の国からなる倭国の都であった邪馬台国に居住していたとします。
邪馬台国の場所を記載している箇所を下記に引用します。
倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
Wikipediaより引用
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黑齒國復在其東南 船行一年可至
參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
邪馬台国の場所
議論を巻き起こしているのが、少ない情報のために邪馬台国の場所が特定できないことです。
- 『南至投馬國水行二十日』 → 水行20日
- 「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」 → 水行10日、陸行1月
- 「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」 → 東に1,000里ほど海を渡ればまた倭種の国
- 「去女王四千餘里」 → 侏儒国は4000里
水行10日、陸行1月、東に1,000里ほど海を渡ればまた倭種の国、侏儒国は4000里などの解釈です。
解釈の仕方により、以下の学説があります。
- 邪馬台国畿内説
- 邪馬台国九州説(北部・南部など九州説にもいろいろあり)
- 邪馬台国四国説
- 邪馬台国中国(岡山・島根)説
- 邪馬台国沖縄説
- 邪馬台国インドネシア説
- 邪馬台国東遷説(邪馬台国が九州から大和へ移動)
- 邪馬台国は存在しなかった説
卑弥呼とは
魏志倭人伝には、卑弥呼が邪馬台国の女王だと記載されています。
ただし、卑弥呼は『日本書紀』にも『古事記』にも出てきません。
いったい卑弥呼とは誰なんでしょうか?
その読み方にもいろいろな説があります。
ひみこ、ひめみこ、ひめこ、ひみか等
邪馬台国の「邪」、卑弥呼の「卑」、倭人の「倭」などは蔑称です。
鮮卑、匈奴、濊、濊貊など、中国より劣ったものに蔑称をつけることがあります。
それが存在を一層分かりにくくしています。
そして卑弥呼にもいろいろな仮説が存在します。
- 卑弥呼=天照大神説
- 卑弥呼=神功皇后説
- 卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命説
- 卑弥呼=熊襲の女王説
- 卑弥呼=倭姫説
日本国の起源に迫る
議論を巻き起こす一因は、邪馬台国が日本という国家の起源に関わるからです。
日本最初の歴史書である『日本書紀』、『古事記』に邪馬台国、卑弥呼の名称は出てきません。
『日本書紀』神功皇后紀に魏志倭人伝の引用が記載されているだけです。
日本の国のことが書かれた歴史書は、この中国の『魏志倭人伝』が最初といえるのです。
正確には日本国であるかどうかも議論の余地があります。
倭国伝ではなく、倭人伝となっています。
中国は邪馬台国を日本の代表国家と認識していなかった可能性があります。
三国志を書いた陳寿は、邪馬台国という国を名乗る女王の遣いが中国に来たけれども、そもそも日本列島唯一の代表ではなく、地域連合体の首長だと認識していたのかもしれません。
それに合わせるように、『日本書紀』にも記載されていません。
つまり、日本人も『日本書紀』が書かれた8世紀に、邪馬台国を国家と認めていなかった
のかもしれません。
そのヒントは下記の文章です。
「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」
女王の国から東に海を渡ること千余里。また国があり皆倭人である。
邪馬台国より海を越えた東の方向に、倭人が住む別の国があることを書いています。
ここだけとっても謎の多い文章です。
そんな日本国の起源について更に詳しく見ていくことにしましょう。