徳川家康についての真実
270年以上続いた徳川幕府を開いた徳川家康はどのような人だったのか、そしてそこにはどのような真実があるのか、調べてみました。
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徳川(松平)の系図
徳川の基礎を築いたのが三河・松平家です。
その松平について調べてみました。
松平元康(徳川家康)の先祖たち
■松平親氏
松平家の始祖。新田源氏世良田氏の末裔と伝わります。
室町時代初期の人で、愛知県西尾市または刈谷市が本拠。
子に酒井家の祖・酒井親清がいます。
■松平康親
松平家の第2代当主。
松平親氏の弟で額田郡岩津(岡崎市岩津町)を占領し、西三河の平野部に初めて進出。
■松平信光
松平家の第3代当主。
松平泰親(親氏)の子で応永十一年(1404年頃)誕生。
岩津城を拠点とする岩津松平家の祖となり伊勢貞親に仕えました。
■松平親忠
松平家の第4代当主。
松平信光の三男で安祥・松平家の初代。岡崎市鴨田町に千人塚を築きました。
■松平長親
松平家の第5代当主。
松平親忠の三男で家康の高祖父。文明五年(1473年)誕生。永正三河の乱で伊勢盛時(北条早雲)と戦いました。
■松平信忠
安城松平家2代当主。松平長親の子で家康の曽祖父。
延徳ニ年(1490年)誕生。永正三河の乱で伊勢盛時(北条早雲)と戦いましたが、暗愚説もあります。
■松平清康
安城松平家3代当主。松平信忠の子で家康の祖父。
永正八年(1511年)誕生。森山(守山)崩れで家臣に討たれました。享年25でした。
■松平広忠
安城松平家4代当主。松平清康の子で家康の父。
大永六年(1526年)誕生。竹千代(家康)を人質として今川氏に臣従しました。
なぜ源氏を名乗ったのか?
戦国時代の武士は自分たちの正統性を主張するために源氏や平氏の末裔を名乗っていました。
有名なのが清和源氏、河内源氏、桓武平氏です。
清和天皇の流れをくむ天皇の子孫であることが名誉でもあり、天皇と繋がりがあるという意義もありました。
家康の祖父・松平清康は、清和源氏流新田氏一門である徳川氏の庶流・世良田姓に注目し、世良田次郎三郎と名乗りました。
このような背景もあって、家康は若い頃から自分は源氏であると称していました。
永禄六年(1563年)3月、元康の嫡子・竹千代(信康)と信長の娘・徳姫の婚約が成立し、織田家との同盟関係がさらに強化されました。
一方で、元康は同年6月から10月の間に、名を家康と改名しました。
永禄九年(1566年)5月、家康は三河一国の平定を達成します。
そして、朝廷より徳川への改姓と従五位下三河守への叙位・任官の勅許を受けました。
この叙位・任官および改姓には、関白・近衛前久らの尽力がありました。
このとき、藤原姓徳川家康と名乗ったとされ、藤原氏を用いたり、得川ではなく徳川を使用した理由には諸説あります。
徳川家康の基礎データ
徳川家康は、天文十一年(1542年)12月、岡崎城主である松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれました。
生母は緒川城主、水野忠政の娘で広忠の正室・於大の方(伝通院)です。
幼名は竹千代です。
竹千代は、天文十六年(1547年)8月、今川氏への人質として駿府へ送られることになりますが、送られる途中の田原城(愛知県田原市)において、戸田康光の裏切りによって、尾張国の織田信秀(信長の父)へ送られることになりました。
しかし、広忠が今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留められました。(岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したという説あり)
この頃、織田信長と徳川家康が出会った、とドラマや小説で語られているのは有名です。
しかし、これは真実かどうかはわからないというしかありません。
史料として残っていないからです。
出会っているとすれば、信長14歳、家康6歳くらいの年の差でした。
その後、今川義元は織田信秀の息子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻します。
しかし、竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(山田景隆など)に支配されました。
墓参りのため岡崎に帰郷したとき、岡崎城の本丸には今川氏の城代が占有していたため入ることができず、二の丸に入ったと言われています。
天文二十四年(1555年)3月、13歳で元服し、今川義元から諱「元」をもらい次郎三郎元信と改名します。
今川義元の姪で関口氏純(親永)の娘・瀬名(築山殿、築山御前)と結婚します。
瀬名(築山殿)は、元信(家康)より2、3歳年上と言われています。
また別に、瀬名の母親は井伊直平の娘で、先に今川義元の側室から後にその養妹として親永に嫁いだとも言われ、井伊直盛といとこ、井伊直虎は従姪に当たることになります。
この頃、祖父・松平清康の諱「康」をもらい蔵人佐元康と改名しています。