綏靖天皇・安寧天皇・懿徳天皇

綏靖天皇

欠史八代についてはこちら
『先代旧事本紀』の現代語訳はこちらを参考にしています。現代語訳『先代旧事本紀』

綏靖天皇
綏靖天皇Wikipediaより引用

『日本書紀』
綏靖天皇は神渟名川耳天皇で、神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命の第三皇子です。
綏靖天皇の皇后は、事代主神の次女、五十鈴依媛命です。
一書では磯城県主の娘の川派媛となります。

『古事記』
綏靖天皇は神沼河耳天皇で、神武天皇と伊須気余理比売の第三皇子です。
綏靖天皇の皇后は、師木県主の河俣毘売です。
宮の所在:葛城の高岡宮(御所市森脇)
崩御の年齢:45歳
御陵:衝田岡 比定地は桃花鳥田丘上陵(塚山古墳)

『日本書紀』によると、綏靖天皇48歳の時に、神武天皇が崩御されました。
腹違いの兄である手研耳命は弟二人を殺害しようと図ります。
この時、太歳己卯
元年の春に即位。太歳庚辰
25年春、磯城津彦玉手看尊を皇太子とします。
33年夏、天皇が崩御されます。太歳癸酉 84歳
桃花鳥田丘上陵(橿原市大字四条字宇田井ノ坪)に葬られました。

『先代旧事本紀』
三年春、宇摩志麻治命の子の彦湯支命を、食国の政事を行う大夫とされました。

河俣毘売(川派媛)は、宇摩志麻治命の子である彦湯支命の子です。
つまり、宇摩志麻治尊の孫にあたります。

磯城県主から皇后を出していますので、宇摩志麻治系が実権を握っていたことが分かります。
磯城県主は宇摩志麻治命系、つまりニギハヤヒの子孫です。

欠史八代の一人と言われています。

安寧天皇

安寧天皇
安寧天皇Wikipediaより引用

『日本書紀』
安寧天皇は、磯城津彦玉手看天皇です。綏靖天皇と五十鈴依姫命の嫡子です。
綏靖天皇33年夏、綏靖天皇が亡くなり、太子は皇位につかれました。
太歳癸丑
2年、都を片塩に移します。浮孔宮です。
3年春、渟名底仲媛命を皇后としました。
第一子は息石耳命、第二子は大日本彦耜友天皇(懿徳天皇)です。
11年春、大日本彦耜友天尊を皇太子としました。弟の磯城津彦命は、猪使連の始祖です。
38年冬、天皇は崩御されました。57歳

『古事記』
安寧天皇は、師木津日子玉手見命です。綏靖天皇と河俣毘売の第一皇子です。
安寧天皇の皇后は、師木県主波延の娘である阿久斗比売です。
皇子女:常根津日子伊呂泥命、大倭日子鉏友命(懿徳天皇)、師木津日子命
宮の所在:片塩の浮穴宮
崩御の年齢:49歳
御陵:畝火山の美富登 比定地は畝傍山西南御陰井上陵(塚山古墳)

『先代旧事本紀』
四年の夏四月、出雲色命を政事を行う大夫とされました。
また、大祢命を侍臣としました。二人はともに宇摩志麻治命の孫です。

安寧天皇も、磯城県主から皇后を出していますので、宇摩志麻治系が実権を握っていたことが分かります。

懿徳天皇

懿徳天皇
懿徳天皇Wikipediaより引用

『日本書紀』
懿徳天皇は、大日本彦耜友天皇です。安寧天皇と渟名底仲媛命の第二子です。
安寧天皇38年冬、安寧天皇が亡くなり、太子は皇位につかれました。
太歳辛卯
2年春、都を軽に移します。曲峡宮です。
この年、天豊津媛命を皇后としました。
皇后は、観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)を生みました。
22年春、観松彦香殖稲尊を皇太子としました。
34年秋、天皇は崩御されました。

『古事記』
懿徳天皇は、大倭日子鉏友命です。安寧天皇と阿久斗比売の第二皇子です。
懿徳天皇の皇后は、師木県主の祖である賦登麻和訶比売命(飯日比売命)です。
皇子女:御真津日子訶恵志泥命(孝昭天皇)、多芸志比古命
宮の所在:軽の境岡宮
崩御の年齢:45歳
御陵:畝火山の真名子谷 比定地は畝傍山南繊沙渓上陵

『先代旧事本紀』
元年三月、食国の政事を行う大夫だった出雲色命を大臣とされました。

懿徳天皇も、磯城県主から皇后を出していますので、宇摩志麻治系が実権を握っていたことが分かります。

短期間で譲位した3代の天皇

上記で示したように、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇の3代は、磯城県主の子孫が皇后になっています。
また、『先代旧事本紀』にあるように政治的にも、宇摩志麻治尊、磯城県主が力を持っていたことが分かります。
この三代の天皇は短期間で継承されていたことになります。
この三代の天皇は宇摩志麻治命の孫の世代にあたります。

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