垂仁天皇:第11代
垂仁天皇の事績
『古事記』
垂仁天皇は、伊久米入日子伊佐知命といわれ、崇神天皇と御真津比売命の皇子で、第11代天皇です。
后妃:沙本毘売命(沙本毘古王の妹)、氷羽州比売命(比婆須比売命、丹波比古多多須美知能宇斯王の娘)等
皇子女:本牟都和気命(本牟智和気命)、大帯日子淤斯呂和気命(景行天皇)、倭比売命 等
宮の所在:師木の玉垣宮 奈良県桜井市穴師
崩御の年齢:153歳
御陵:菅原の御立野 奈良県奈良市尼辻西町 菅原伏見東陵 尼辻宝来山古墳
『日本書紀』
垂仁天皇は、活目入彦五十狭茅天皇といわれ、崇神天皇と御間城姫(大彦命の女)の第三子です。
元年春、皇太子は皇位につかれた。
元年冬、崇神天皇を山辺道上陵に葬りました。太歳壬辰
2年春、狭穂姫命を皇后としました。誉津別命が生まれました。大きくなっても物を言われなかった。
2年冬、纏向に都をつくり、珠城宮といいました。
3年春、新羅の王の子、天日槍がきました。
持ってきたのは、羽太の玉一つ・足高の玉一つ・鵜鹿鹿の赤石の玉一つ・出石の小刀一つ・出石の桙一つ・日鏡一つ・熊の神籬一具、合せて七点ありました。
それを但馬国におさめて神宝としました。
任那と新羅の抗争
任那の歴史
『日本書紀』に、はじめて任那に関する記事が登場します。
任那は朝鮮半島の日本領です。
ここでは記載がありませんが、中国の歴史書『三国志』魏志韓伝に記述があります。
❝韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接❞
韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽き、南は倭と接する。
『後漢書』東夷伝にも記述があります。
❝馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接❞
馬韓は西に在り、54国を有し、その北は楽浪郡と南は倭と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国を有し、その南はまた倭と接する。
その他、『三国志』魏書弁辰伝、『三国志』魏書韓伝などに弁辰は倭と境界を接しているという記述があります。
2世紀から3世紀にかけての時代に、日本領が朝鮮半島にあったということが、第三国の史料により客観的に判明しました。
弁辰、狗邪韓国が任那の源だったことが、『三国志』魏書弁韓伝に記されています。
弁辰(韓)地域の中で一番優勢なのは、金海市付近の金官伽耶だったと記載があります。
これが任那に発展していきます。
任那という名称が初登場するのが、好太王碑文です。
400年の高句麗との戦いにおいて「任那加羅」という名称が好太王碑文に記載されています。
『日本書紀』の任那
2年、任那の蘇那曷叱智(ソナカシチ)が「国に帰りたい」といいました。
天皇は彼を厚くもてなされ、赤絹百匹を持たせて任那の王に贈られました。
ところが、新羅の人が途中でこれを奪い、両国の争いはこのとき始まりました。■ある説
崇神天皇の時代、額に角の生えた人が、越の国の笥飯の浦につきました。
『日本書紀(上)』宇治谷孟訳より引用
「大加羅の王の子、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、またの名は于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)といいます。
穴門についたとき、その国の伊都都比古が私に、『自分はこの国の王である。自分の他に二人の王はない。他の所に勝手に行ってはならぬ』といいました。
しかしよくよく見ると、これは王ではないと思い、そこから退出しました。
『しかし、道が分からず島浦を伝い歩き、北海から回って出雲国を経てここに来ました』といいました。
崇神天皇は都怒我阿羅斯等に尋ねられました。
「お前の本国の名を改めて、御間城天皇の御名をとって、お前の国の名にせよ」といわれました。
そして、赤織の絹を阿羅斯等に賜り、元の国に返されました。
だからその国を名づけてみまなの国というのは、この縁によるものです。
阿羅斯等は賜わった赤絹を自分の国の蔵に収めました。
新羅の人がそれを聞いて兵を起こしてやってきて、その絹を皆、奪いました。
これから両国の争いが始まったといいます。
御間城天皇の名をとって任那とします。
任那の名前の由来が記載されています。
垂仁天皇の父親である崇神天皇は、御間城入彦五十瓊殖天皇、別名、御眞木入日子印恵命・所知初國御眞木天皇・美萬貴天皇です。
御間城入彦五十瓊殖天皇の御間城より、任那と名付けられました。
これは、垂仁天皇の時代ですので、遅くとも4世紀後半には任那が存在していたことになります。
好太王碑文にも任那が記載されていることからも、この頃任那が存在していたことが明らかになりました。
■氣比神宮
氣比神宮は、福井県敦賀市曙町にある越前国一宮で官幣大社です。
ここの摂社である角鹿神社の祭神として都怒我阿羅斯等命が祀られています。
神社伝承では、天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じ、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとしており、「敦賀(ツルガ)」の地名は当地を「角鹿(ツヌガ)」と称したことに始まるとしています。
さすがに角が生えているとは思えませんが、都怒我阿羅斯等は、当時実在した人物だということが推定できます。
伊勢皇大神宮の引越し
『日本書紀』
垂仁天皇25年春、阿部臣の先祖、武渟川別、和珥臣の先祖、彦国葺、中臣連の先祖、大鹿島、物部連の先祖、十千根、大伴連の先祖、武日らの五大夫たちに詔して、「私の代にも神祇をお祀りすることを、怠ってはならない」といわれました。
天照大神を豊鋤入姫命からはなして、倭姫命に託されました。
倭姫命は宇陀の篠幡に行きました。
さらに引き返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至りました。
これが元伊勢といわれる伊勢皇大神宮つまり天照大神の遷座の伝承です。
奈良の三輪山に祀られていた天照大神は、崇神天皇の御代に同床共殿されていましたが、畏れ多いということで、笠縫邑仮宮の祠から鎮座地を求めて各地を転々とし、最終的に現在の伊勢神宮に鎮座されます。
なぜ、天照大神は遷座し続けたのでしょうか。
同じ時期に、大物主神=ニギハヤヒの御魂は石上神宮と大神神社に祀られたのに、なぜアマテラスの御魂は転々とすることになったのでしょうか。
祟りが収まらなかったからでしょうか。
祟りの収束を理由にはできません。なぜならニギハヤヒの御魂は遷座することなく石上神宮と大神神社に祀られています。
ひとつ仮説をいうと、崇神・垂仁天皇の時代、アマテラスは皇祖神として認められていなかったのではないか、というものです。
そしてもう一つの仮説が、九州日向の天照大神は大和や東海地方で知名度が低く、時代を経るに従い、皇祖神として祀る価値を認める人がいなかったのではないか、というものです。
女神としての天照大神が祖神として崇められるのは、藤原不比等が介在する持統朝に入ってからだという説があります。
『日本書紀』を事実上創ったのは不比等ではないかといわれています。
持統朝から始まる女帝の時代を、天照大神を用いて権威化したのが不比等というわけです。
崇神朝において、祖神であるなら、天照大神が各地を彷徨うなど考えられません。