清和源氏:武士の台頭 Rise of Samurai

清和源氏
武士の台頭 清和源氏・河内源氏

清和源氏と陽成源氏説

清和源氏とは、清和天皇の皇子・貞純親王を祖とする源氏の流れをくむ氏族のことです。
一般的に言われる清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子・貞純親王の子である源経基(経基王)を祖とするというのが通説です。

しかし、この清和源氏の起源説には異説があります。
つまり、清和天皇の第六皇子貞純親王の子が清和源氏の祖であるであるとする説は間違いという説です。
これは、陽成源氏説と言われます。
経基王は、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄である陽成天皇の子・元平親王の子であるとするものです。
明治時代の歴史学者・星野恒氏が『史学雑誌』に寄稿、「六孫王ハ清和源氏ニ非ザルノ考」として主張したものです。
永承元年(1046年)に出された頼信が自分の譜系にふれた石清水八幡宮の願文の中に「先人新発(満仲)、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇・・・」と記載されているというものです。
星野恒氏は、「清和源氏は実は清和天皇ではなく陽成天皇の子孫でしたが、暴君であった不名誉な天皇であったため、陽成源氏ではなく清和源氏を名乗った」という論拠を主張しています。
この陽成源氏説、確かな証拠もあり有力な論説だといわれますが、残念ながら通説化には至っていません。
つまり、論拠となる文献がこれ一つしか無いというのが弱点となっています。
私も、陽成源氏説は根拠が希薄かなあと思います。

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臣籍降下して生まれた源氏

臣籍降下とは、元は明治憲法の用語ですが、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣民の身分に降りることをいいます。
特に源氏は、嵯峨天皇が弘仁5年(814年)に皇子3名に皇親賜姓を行い源氏を授けたことに始まるといわれます。

徳川家康といい戦国大名は、源氏の血統を受け継いでいるいないに関わらず、なぜ源氏を名乗りたがるのでしょうか。
清和源氏の末裔を称することで家格を誇張する意味合いがあったのです。
徳川家康は新田源氏の系図を借用したともいわれています。
新田氏は、清和源氏流・河内源氏系です。

武士のはじまり、特に源氏というのは、貴族が臣籍降下して生まれたということです。
平氏についても同じことが言え、例えば桓武平氏の基盤を確立したといわれる平高望は、桓武天皇三世の子孫で、高望王といわれる皇族でした。
今でこそ貴族というと武力を嫌い家から一歩も出ないようなひ弱で軟弱なイメージがついていますが、当時はそうではなく、軟弱ではなかったのです。
腕力に優れた荒くれ者の集団を統率し組織化していくのに、貴族から臣籍降下した高い位の源氏や平氏の軍事貴族が必要だったのです。
源氏などの知略に優れたものと腕力に優れたものが融合することで、相乗効果が生まれ、武士集団として成長していきます。
それが、源頼朝、足利氏などの軍事貴族へと受け継がれています。

清和源氏と河内源氏

清和源氏の祖といわれるのが源経基(経基王)です。
しかし、源氏の祖といわれるほど優れた武将ではなかったようです。
承平三年(938年)武蔵介として武蔵国に赴任していた経基王は、足立郡司の武蔵武芝と対立し、略奪などを行います。
そこで、平将門が調停に赴きます。
ところが、平将門、武芝が調停に赴いた行動を経基自身への攻撃と勘違いし、経基は武蔵国を逃げ出し、上洛し将門らの謀反を訴えます。
しかし将門らが承平九年(939年)5月、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を藤原忠平へ送ると、将門らの申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁されます。
この経基の行動は、『将門記』に「経基、いまだ兵の道に練れず」と嘲笑されています。
その後、将門は天慶二年、反乱を起こしたとして討伐されます。
いわゆる平将門の乱です。
翌年には経基は従五位下に昇進するのです。結果オーライでした。
その後に起こる藤原純友の乱においても活躍することはできず、源氏は、嫡男の満仲に継承されます。

このように、経基はそれほど武将としての資質は高くないけど、清和天皇の第六皇子貞純親王の子であるということが身分不相応の位を得ることに影響したものと思われます。

満仲の名が登場するのは、安和の変でした。
安和二年(969年)、安和の変が勃発します。
左馬助 源満仲と前武蔵介 藤原善時の二人が、中務少輔 橘繁延と左兵衛大尉 源連の謀反を密告したのです。
この知らせを受けて、右大臣師尹以下の公卿はただちに参内し、宮中の諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧侶である蓮茂や、検非違使 源満季、前相模介 藤原千晴とその子久頼などを捕らえて訊問に入りました。
さらに、関所を固める固関使も出発するなど大騒動に発展します。
満仲は安和の変の恩賞として正五位下に昇格し、藤原北家の信任を得て、源氏の地位を高めることになりました。

満仲は、現在の兵庫県川西市において多田院を建立し所領化、武士団を形成することで、部門源氏の祖として崇められていきます。

源頼信と平忠常の乱

藤原道長の時代に活躍するのが清和源氏の流れをくむ河内源氏の祖といわれる源頼信です。
頼信は、満仲の三男で兄弟として頼光、頼親等がいます。
頼信の嫡男が頼義で、その嫡男が義家です。
頼信が活躍したのが平忠常の乱(長元の乱)です。

藤原道長が死亡した直後、長元元年(1028年)6月、平忠常は安房守平維忠を殺害、上総国の国衙を占領してしまいます。
反乱は房総三カ国(上総国、下総国、安房国)に広がる大乱に発展しました。
関白藤原頼通は、追討使の派遣を決定しました。
追討使は、頼信、検非違使・平直方、同じく中原成通、平正輔等から選ばれることになりました。
結局、頼信は選ばれず、平直方、中原成通が追討使に選ばれました。
平直方、中原成通の追討使軍と平忠常との戦いは泥沼の様相を呈し3年たっても終わりませんでした。

ついに、長元三年(1030年)9月、関白頼通は直方を更迭し、頼信が追討使に任命されることになりました。

頼信は忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向します。
これは頼信が平忠常の説得を試みる考えがあったのだと推測されます。
長元四年(1031年)4月、平忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏しました。
あっけなく平忠常が降伏したのは、今まで仇敵だった平直方に代わって主君の頼信が追討使に代わったことが大きいとみられています。
忠常の息子、常昌(将)、常近(親)に処分が下されることはありませんでした。
この乱によって、坂東平氏の多くが頼信の軍門に入り、河内源氏が東国で勢力を広げる契機となりました。

六孫王神社と源経基(経基王)

六孫王神社は、京都市南区壬生通八条角にある源経基を祀る清和源氏発祥の神社です。
応和三年(963年)、源満仲が経基王の遺言に基づき墓所を建立した地に、社殿を築いたのが始まりとされています。
「六孫王は、清和天皇の六男を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた」とされています。
源経基没後、当地は清和源氏発祥の地として摂津源氏(源頼光)、多田源氏(源満仲)によって伝領され、その後、源頼朝に与えられました。
六孫王神社・多田神社・壺井八幡宮を「源氏三神社」といいます。

六孫王神社:源氏
六孫王神社

多田神社と多田源氏

多田神社は、兵庫県川西市多田院多田所町にある源満仲から義家までを祀る清和源氏発祥の神社です。
多田源氏は、清和源氏の系統において源満仲を祖とする摂津国多田荘を本拠とした系統貴族です。
源満仲が居館を構築し、末子の源賢が天台宗・多田院を設立しました。
清和源氏発祥といわれる「源氏三神社」の一つですが、多田源氏の没落のため衰微しています。

多田神社
多田神社

壺井八幡宮と源頼信

壺井八幡宮は、大阪府羽曳野市壺井にある源頼信を祀る河内源氏発祥の神社です。
この地には、源頼信、頼義、義家の3代にわたって居住しています。
前九年の役で勝利した源頼義が私邸の東側に社殿を造営したのが始まりです。
壺井八幡宮を武家源氏の棟梁として河内源氏の総氏神としています。
六孫王神社、多田神社と壺井八幡宮の三社を「源氏三神社」といいます。

壺井八幡宮
壺井八幡宮

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