江戸時代に鎖国していたのは嘘?
江戸時代は徳川幕府の鎖国政策によって日本は閉ざされており、技術の進歩が止まり世界から取り残された時代であった、というのが一般常識とされています。
この江戸時代の鎖国というのは本当なのか?嘘なのか?を考えてみることにします。
鎖国に関する議論
先ずは高校の教科書から江戸時代の鎖国についての記述を見てみましょう。
鎖国政策
活発であった海外貿易も幕藩体制が固まるにつれて、日本人の海外渡航や貿易に制限が加えられるようになった。
その理由の第一は、キリスト教の禁教政策にある。
理由の第二は、幕府が貿易の利益を独占するために、貿易に関係している西国の大名が富強になることを恐れて、貿易を幕府の統制下に置こうとした。
そのため、1616(元和2)年には中国船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に制限し、1624(寛永元)年にはスペイン船の来航を禁じた。
ついで1633(寛永10)年には、奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止し、1635(寛永12)年には、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止し、九州各地に寄港していた中国船を長崎に限った。1641(寛永18)年には平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、オランダ人と日本人との自由な交流を禁じて、長崎奉行がきびしく監視することになった。こうしていわゆる鎖国の状態となり、以後、日本は200年余りのあいだ、オランダ商館・中国の民間商船や朝鮮国・琉球国・アイヌ民族以外との交渉を閉ざすことになった。
詳説日本史B 改訂版 山川出版社 2016(平成28)年文部科学省検定済
高校の教科書を読むと、鎖国政策が江戸時代行われていた、と説明していることが分かります。
次に、中学の教科書の記述は江戸時代の鎖国についてどのような見解を取っているのでしょうか。
2017年2月には2020年度から使用される中学校の次期学習指導要領改定案から「鎖国」という表現が削除され、小学校では「幕府の対外政策」、中学では「江戸幕府の対外政策」とされる予定であるとの発表があった。
しかし、パブリックコメントでの批判が多かったことから、幕末の「開国」との関係に配慮し「鎖国などの幕府の対外政策」といった表記がなされることとなった。なお、海外との交流・貿易を制限する政策は徳川日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていたこともあり、現代の歴史学においては、「鎖国」ではなく、東北アジア史を視野に入れてこの「海禁」という用語を使う傾向がみられる。
「鎖国」概念の見直し Wikipedia
その理由としては、1)「鎖す」という語感が強すぎる、2)対欧米諸国の視点に基づきすぎている、3)否定的なイメージがある、があげられている。
しかし、「海禁」自体の研究が十分ではないとの指摘もあり、従来の用語を変えることへの批判もある。
高校に対し中学の教科書では、鎖国という表現を変えようとする動きがあるようです。
とはいえ、鎖国の中身の議論というよりも、「鎖国」という表現の議論をしているようで、少し見当違いの議論にも見えます。
「海禁」という言葉のほうが難しく意味が分かり難いように感じます。
中学校の教科書の議論としてはもう少し学術的なものであってほしいです。
岡本大八事件
岡本大八事件は、慶長十四年(1609年)に起きたキリシタン・岡本大八による詐欺事件です。
慶長十四年(1609年)2月、肥前日野江城主・有馬晴信の朱印船がポルトガル領マカオに寄港した際、配下の水夫がポルトガル船マードレ・デ・デウス号の船員と取引をめぐって殺傷事件を起こし、それを報復するため、その船員の乗ったマードレ・デ・デウス号を12月、長崎港において撃沈しました。(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)
有馬晴信は、褒賞による領地の回復に期待を寄せており、徳川家康は有馬晴信へ報復の許可を出し、監視役として、本多正純家臣の岡本大八を送ります。
江戸幕府の長崎奉行・長谷川藤広は、伽羅の買付をめぐって有馬晴信と不仲となり、対立関係にありました。
岡本大八は晴信と同じくキリシタンでした。
岡本大八は、晴信に家康からの朱印状を渡し、家康への報告から戻った大八を、晴信は信じこみます。
慶長十七年(1612年)、本多正純に直接書状を送って交渉したところ、本多正純はまったく知らないということで、詐欺が発覚したのでした。
大八は家康の偽の朱印状まで周到に用意し、結果6000両にもおよぶ金銭を詐取していました。
本多正純は大八を訊問しますが、大八はこれを否定。
家康は駿府町奉行になっていた彦坂光正に調査を命じ、慶長十七年(1612年)2月、大八を捕縛し、厳しい拷問をおこなうことで、偽造を認めたものの、晴信を道連れにしてやろうと「晴信が長谷川藤広の暗殺しようとしていると申し出ました。
正純は大八を江戸に送り、また晴信も呼び出して、大久保長安の邸で両者を対決させ尋問すると、晴信も藤広への暗殺未遂を認めてしまいました。
晴信は切腹し、大八は駿河の安倍川で火あぶりの刑に処せられました。
有馬晴信、岡本大八二人ともキリシタンであり、腹心・本多正純の家臣にまでキリシタンが広がっていることを危惧した家康は、ついにこの事件を契機にキリスト教を禁止することになりました。
金地院崇伝の書いた伴天連追放の文章をみると、「キリシタンはただ通商のためだけではなく、冤法を広め、正宗をまどわし、日本を自分のものとしようとしたと考えたからである」とあり、幕府はキリシタンには領土的野心があることをはっきり示しました。
島原の乱
寛永十四年 (1637年)から翌十五年にかけて島原と天草島のキリシタンが島原の乱を起こします。
肥前(長崎県)島原・肥後(熊本県)天草地方は、キリシタン大名・有馬晴信・小西行長の旧領です。
島原藩主・松倉重政と唐津藩主・寺沢広高らはキリシタン禁教・重税・厳罰で弾圧していました。
総大将・天草四郎時貞は、一揆を組織化し、37千人の百姓を従えていました。
幕府は板倉重昌以下鍋島、有馬、立花などの西国大名を動員しますが、重昌が戦死したため、老中・松平信綱が到着すると、オランダ船に砲撃を要請させますが、外国の力を借りることへの批判から、すぐに断念、兵糧攻めで寛永十五年2月、落城させ参加者を皆殺しにしました。
島原の乱後、江戸幕府の禁教政策はいっそう強化され、鎖国体制を完成させる契機となりました。
朝鮮通信使
朝鮮通信使というのは、室町時代にはじまり、豊臣秀吉の朝鮮出兵による中断を経て、江戸時代にかけておこなわれた朝鮮から日本への外交使節団のことです。
江戸時代に入り12回の朝鮮通信使の来日が記録されていますが、将軍との謁見はあったものの、天皇への拝謁はありませんでした。
朝鮮通信使は主として徳川将軍家を祝賀するための使節であり、中国に対する朝貢使節と同様の役割と認識されていました。
最期の12回目の通信使は天明の大飢饉の影響もあり財政が悪化、江戸に来ることはなく、対馬で留め置かれました。
朝鮮通信使の行いについては、「ねずさんのひとりごと」を読むと理解できる記事となっています。
イザベラ・バードの「朝鮮紀行」にも同類のことが書いてあります。
日東壮遊歌
日東壮遊歌 Wikipedia
『日東壮遊歌』とは、江戸時代の1763年(宝暦13年)から1764年(明和元年)にかけて来日した第11次朝鮮通信使(目的は徳川家治(在職1760年〜1786年)の将軍襲職祝い)の一員(従事官の書記)として来日した金仁謙の著書で旅行記である。
対馬で食べたサツマイモの美味しさに感激し、種芋を乞うてサツマイモを朝鮮半島に持ち帰った。
これが朝鮮半島へのサツマイモの初伝来である。
また、淀川では水車の機構の見事さに感服し、「見習ってつくりたいぐらいだ」と書く。
実は第一回以降、毎回朝鮮通信使たちは毎回日本の水車に感心し、朝鮮に伝えようとしていたがかなわなかったようである。
1881年に明治に入って朝鮮から日本に派遣された「紳士遊覧団」の視察コースにも水車製造所が含まれている。
長年、水車をつくることができなかったというエピソードやサツマイモの話は、当時の朝鮮半島の文化が低かったことを象徴しています。
琉球国
江戸時代に琉球国王が江戸幕府へ派遣した使節が琉球使節、江戸上りです。
薩摩藩による琉球征服後の寛永十一年(1634年)から嘉永三年(1850年)の間に18回行われ、琉球国王即位のタイミングで派遣される謝恩使と、幕府将軍就任のタイミングで派遣される慶賀使とがありました。
元々、沖縄は、日本語に近い言語体系であり、DNAも日本人に近い縄文系ですので、琉球王国を独立国として扱うのは無理がありますが、一時期中国と冊封関係にあったため、江戸時代は異国として扱われました。
慶長十四年(1609年)、徳川幕府の許可のもと、薩摩藩は琉球侵攻を実施します。
島津軍は3000名の兵を率いて奄美大島に進行、さらに沖縄本島に上陸し、首里城にまで進軍しました。
島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて抵抗しましたが敗退しました。
これ以降、琉球は薩摩藩の支配下に入りますが、清国と冊封関係を維持する体制となっていました。
オランダ・出島
島原の乱を制圧した徳川幕府は、寛永十六年(1639年)、ポルトガル船の来航を禁じ、鎖国が完成しました。
寛永十八年(1641年)、幕府が平戸のオランダ東インド会社の商館を出島に移すように求めたため、商館長カロンはこれを受け入れ出島に移り、キリスト教の儀式が禁じられました。
中国
徳川家康、秀忠の江戸幕府は、朝鮮出兵で断絶していた明との国交回復と勘合貿易の再開を企図しましたが、日本に警戒心を持つ明に断られ失敗しました。
明が滅びそれに代わり女真族による清が成立すると、出島(長崎口)・対馬口・琉球口・松前口を通した定高貿易を行いました。
鎖国は嘘か本当か
江戸時代前期に行った鎖国政策の中心は、海外渡航の禁止、ポルトガル船来航禁止、外国人居留地と外国船渡来地を出島に限定したことです。
その背景にあったことはキリスト教の禁止でした。
キリスト教の教義でもある一神教が日本古来の仏教、神道を邪教と扱うことで日本人の心を排斥しており、倒幕につながる驚異とみなされたのでした。
その裏には仏教勢力の反対運動があったということが読み取れませんから、幕府による政治的判断が強かったと考えます。
江戸時代後期に入り、諸外国からの開国要求が強まるまで、この鎖国政策は維持されていることからも、日本にとってメリットがあったとみなしていたことがわかります。
確かに「鎖国」という言葉を江戸幕府が使ったことは無いようですので、制度としての「鎖国」は無かった、というのはわかります。
しかし、琉球、朝鮮、オランダ、中国以外は交易できなかったのだから、「鎖国」状態であることは間違いないでしょう。
新たな発見もなく、他に良い言葉がないのだから、「鎖国」を使っても問題ないでしょう。