桓武平氏と平氏の台頭 Rising of Heishi
桓武平氏とは
桓武平氏とは、桓武天皇の子・葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫を言います。
一品式部卿・葛原親王の孫・高望王が宇多天皇の時代に初めて平の姓を賜って、臣籍降下、桓武平氏はその後興隆し、伊勢平氏や平清盛、北条氏・畠山・千葉・三浦・梶原などの氏族を輩出していきます。
桓武平氏が勢力を強めたのは、源氏の衰退との相関からでした。
源氏は嘉承元年(1106年)、源義家が死亡すると、源氏内部での勢力争いもあり、勢力が弱体化していきました。
源氏に代わる武士の勢力として白河上皇が着目したのが平氏でした。
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平将門の乱:承平天慶の乱
平将門は、桓武平氏の祖・高望王の孫になります。
平将門は、坂東で土着化した平良将の息子ですが、生年は不明で9世紀末から10世紀初頭に生まれたと推測されます。
どこに住んだかは諸説あり、下野国猿島郡石井(茨城県)、同佐倉(千葉県)という説が有力です。
土着受領として坂東で基盤を固め、下人などを使い広く農業を手掛け、富裕化することで勢力を伸ばしていきます。
延長九年(931年)頃、将門は女性問題または所領問題によって伯父・良兼と不和になったとされています。
承平五年(935年)2月、将門は平昌樹等とともに、源扶、源隆、源繁の三兄弟と合戦となりました。
将門は逃げる扶らを追って源護の館のある常陸国真壁を攻め、平国香と源三兄弟を討伐しました。
父親の平国香を殺された平貞盛は左馬允の位になっていて、父親国香の戦死を知りやむを得ず帰郷します。
この時の貞盛は、京での昇進を願い、仇討ちという意識は低かったといわれます。
結局、承平六年(936年)6月、叔父の良兼の説得で将門と戦闘することになりました。
身内に近いほど恨みも深いのか、従兄弟同士の争いとなりました。
9月には、朝廷から召喚命令が護、将門、平真樹の双方へ届きました。
将門は上京して検非違使庁で尋問を受け申し開きを述べます。
忠平の朝廷はこれを微罪として、承平七年(937年)4月、朱雀天皇元服の恩赦が出され、将門は坂東へ帰りました。
8月、良兼はまたも軍を起こして、下総国と常陸国の境の子飼(小貝)の渡しに進出し、将門軍は一旦退却します。
良兼軍は再度豊田に侵入して略奪狼藉の限りをつくし、将門の妻子も捕らえられてしまいます。
9月、またも良兼は挙兵しますが、将門はこれを迎撃して打ち勝ちました。
将門は忠平に良兼の暴状を訴え、12月、朝廷から良兼らの追捕の官符が発せられます。
将門は兵を豊田から石井へ移し、良兼は春丸という内通者から情報を入手し、石井の館に夜襲をかけますが将門軍に撃退されます。
この戦闘後、良兼の勢力は衰えていき、貞盛は陸奥国経由で京へ逃れようとしますが、将門軍に追撃され、ついに遁走し身を隠しました。
平将門、藤原純友が戦乱のきっかけとなり、全国で騒乱が勃発します。
戦乱の原因は、主に受領による横暴への土豪、百姓層の反発でした。
その背景にあったのが中央政府の執政・藤原忠平の時代に起こったことは偶然ではなかったでしょう。
坂東においても受領と郡司との間で騒乱が起きます。
天慶二年(939年)2月、武蔵国権守・興世王、介・源経基と、土豪で足立郡の郡司・武蔵武芝との間で紛争が起こります。
『将門記』によると、受領側の兵士が竹芝の居宅や辺縁の民家を襲い略奪をしたとあります。
この争いの調停に乗り出したのが将門でした。
興世王と武蔵武芝を和解させようと酒宴を開きますが、どういう経緯かわかりませんが、武芝の兵の一部がにわかに経基の軍営を包囲し、驚いた経基は任務を投げ出して京に向かいました。
経基は将門、興世王、武芝が経基殺害を企てたと考え、彼らの謀反を訴えました。
藤原忠平は使者を東国に派遣し、御教書を下して、謀反が事実かどうかを報告させました。
5月、驚いた将門は、関東5カ国(常陸・下総・下野・武蔵・上野)の国府の謀反はしていないという証明書をそえて送りました。
これにより将門は嫌疑が晴れました。
この頃、権守・興世王は受領として赴任してきた百済王貞連と不和になり、権守にもかかわらず興世王は貞連に恨みを抱いて任地を離れ、将門を頼るようになります。
常陸国でも事件が起きていました。
常陸の土着系受領であった藤原玄明が中央政府介の藤原維幾との間で争い事を起こし、将門に頼ってきました。
将門は、同時に二人の謀反者を匿うことになてしまったのでした。
11月、とうとう争いに発展し、将門は兵1000人を率いて出陣しました。
維幾は兵3000を動員して迎え撃ちますが、将門に撃退され、国府に逃げ帰りました。
将門は国府を包囲し、維幾は降伏して国府の印璽を差し出しました。
将門軍は国府とその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくした、といわれます。
将門は明らかに国府襲撃し、国府の政務を停止させたという事実があります。
その将門の行動は、反乱軍として中央政府に印象付けられていくことになりました。
12月、興世王と密議し将門軍は、まず下野国の国府を占領、続いて上野国に進軍し、一人の巫女(遊女)が現れて八幡大菩薩の使いだとして菅原道真の名前を持ち出し、宣託があったとして将門は新皇を称するに至りました。
勢いになすすべもなく諸国の受領や国司らは逃亡するか京に護送され、将門は無血に近い状態で関東全域を手中に収めました。
その頃、朝廷は東国の騒乱よりも自身に近い西国の騒乱に恐れていました。
西国の騒乱は藤原純友に代表される瀬戸内海の騒乱のことです。
しかし、忠平を中心とする中央政府は受領任せの政治であったため無策でした。
政府が掌握する軍隊であった検非違使も弱体化しており、東西の反乱に怯えるだけでした。
この反乱対策として行ったのは、反乱の鎮静を寺社に祈願することでした。
天慶三年(940年)1月、将門謀反の密告をした源経基が従五位下に叙されます。
追捕使として藤原忠舒、小野維幹、小野好古を任命します。
さらに、朱雀天皇は、67歳の参議修理大夫藤原忠文を征東大将軍に任じ、追討軍が京を出発しました。
一方、逃亡し身を隠していた平貞盛は将門の捜査の手をかいくぐり、下野国押領使の藤原秀郷と盟約を結ぶことに成功します。
将門討伐の軍勢は約4千人でした。
2月13日、将門の本拠石井に攻め寄せ民家に火をつけました。
将門は恒例の兵8千人が集まらず、僅か兵4百余名でした。
2月14日、貞盛と秀郷および藤原為憲も加わり、未申の時刻に貞盛・秀郷軍と将門の合戦がはじまりました。
春先の烈風が吹き荒れ、将門軍は順風に乗って優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破しました。
しかし将門が自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり北風になると、順風になって絶好の機会を得た連合軍は反撃に転じました。
将門は奮戦しますが、敵の矢が将門の額に命中し、討死しました。
将門戦死により情勢は一気に決し、将門勢は敗北します。
将頼、藤原玄茂、興世王は討伐され、藤原玄明も斬刑に処されました。
将門の首は京の東市の脇の樹にくくりつけられ晒し首にされました。