『日本書紀』を四倍年暦で推定する
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『日本書紀』『古事記』の紀年
『日本書紀』の紀年がどのように構成されているかは、長年の研究対象です。
史学界隈では、紀年論といわれているようです。
神武天皇から紀年が記され絶対年代が明示され始めます。
神武天皇の崩御年齢127歳、崇神天皇120歳、垂仁天皇140歳など、明らかに人間の平均寿命を超えています。
そして、なぜこの様な長寿命を記したのかということでいうと、建国を少しでも古くみせるためだという説が一般的です。
日本国が如何に古くからあるかを誇示するために、歴代天皇の長寿を記しているという説です。
他国でも中国等は同等の歴史表記を行っています。
これら古代の天皇の不自然に長い寿命を説明する説として春秋二倍暦説があります。
これは春と夏で1年、秋と冬で1年と数えていたものが、『日本書紀』編纂時にはこれが忘れ去られていたため天皇の年齢が二倍になったという仮説です。
この春秋暦説を唱えた人物として、明治時代に『和洋對暦表』を発表したデンマークのウィリアム・ブラムセンが類似した説を唱えています。
日本の研究家でも、『魏志倭人伝』の「その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す」をもって春秋暦説を主張している学者も存在します。
二倍年暦説・四倍年暦説
この表は、推古天皇の推定崩御年を起点に、遡って神武天皇の即位年を四倍年暦にて計算しています。
四倍暦で大雑把に計算していますが、神武天皇の崩御が258年と推定されました。
『日本書紀』に記載のない情報、例えば、仁徳天皇、反正天皇、安康天皇、雄略天皇の崩御年齢については、『古事記』の年齢で試算しています。
また、清寧天皇については、在位年数の5年で計算しています。
四倍年暦で推測すると、実際の崩御年齢が若すぎるのではないかという問題が出てきました。
そして、即位年齢が若すぎるということも問題です。
そうなると、欠史八代を想定せざるを得ません。
もちろん、春秋暦の二倍年暦というのも妥当な計算方法に思えてきます。
四倍・二倍暦年混在は有りか
こちらの表は、『古代天皇長寿の謎』貝田禎造 著による、四倍・二倍暦混在説を前提に微調整した表です。
神武天皇から応神天皇までを四倍暦とし、仁徳天皇から雄略天皇までを二倍暦としています。
これによると、神武天皇の崩御年は230年と算出されました。
ただし、貝田説によると、神武天皇の崩御年を二倍暦で計算するのが正しいようですが、算出した年代には変更ないためそのままです。
雄略天皇は『古事記』では124歳、『日本書紀』では62歳と、ちょうど二倍です。
継体天皇も『古事記』では43歳、『日本書紀』では82歳と、これもほぼ二倍です。
したがって、この期間は、二倍歴への移行期と考え、雄略天皇から継体天皇までも二倍年暦にて計算しています。
神武紀 「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」を正しいとすれば、辛酉は241年となり、230年を崩御年とするには矛盾します。
しかし、230年~258年の間を崩御年とするならば、矛盾も生じない妥当な年代となります。
参考図書:『日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』長浜浩明 著 WAC
欠史八代は本当か?
欠史八代とは、綏靖天皇から開化天皇まで八代の天皇は、古代中国の革命思想である辛酉革命に合わせることで、皇室の起源の古さと権威を示すために偽作したという言説です。
『日本書紀』には太歳辛酉としか記載されておらず、干支と紀年を関係づけて固定化することはできないのです。
辛酉は60年に一回巡ってくるので、辛酉であるからといって皇室の古さと権威を示すために偽作したという論説は、おかしいです。
60年周期の辛酉というだけで、欠史八代は非実在と結論づけるのは無理があります。
即位年を辛酉にしただけで、欠史八代になるというのは飛躍しすぎでしょう。
『日本書紀』は正直に、紀年はわからないですよと言っているわけです。
紀年はわからないけど、初代天皇として伝承されているから記載したのではないでしょうか。
神武天皇より前の時代を神話でまとめることで、神武天皇の正統性を明示したということでしょう。
四倍暦で計算しても、暦で正しい紀年を求めることは困難です。
応神天皇110歳、仁徳天皇110歳など、欠史八代以外でも異常な長寿の天皇は記載されています。
異常に長い寿命は謎に包まれていることは確かです。
結論としては、天皇の紀年を正確に導き出すことは難しいということです。
しかし、ある程度特定した年代を設定しておかないと、話が進まないので、ある仮説を以て古代天皇の紀年を設定することになります。
それが、神武天皇241年即位であり、それを元に仮説を研究していきたいと考えます。