大東亜戦争(アジア・太平洋戦争):開戦まで
大東亜戦争は、誰が仕掛けたのでしょうか?
開戦までの経緯を探ります。
先ずは、高校の日本史教科書を見てみましょう。
三国同盟の締結でアメリカが対日姿勢を硬化させたと、その要因を語っています。
さて、本当でしょうか?
■太平洋戦争の始まり
三国同盟の締結は、アメリカの対日姿勢をいっそう硬化させることになった。第2次近衛内閣では、日米衝突を回避するため日米交渉を開始した。1940(昭和15)年末の日米民間人同士の交渉が、野村吉三郎とハル国務長官とのあいだの政府間交渉に発展したものである。
一方、時を同じくして三国同盟の提携強化のためにドイツ・イタリアを訪問していた松岡洋右外相は、1941(昭和16)年、帰途モスクワで日ソ中立条約を結んだ。これは南進政策を進めるためには、北方での平和を確保するばかりでなく、悪化しつつあったアメリカとの関係を日ソ提携の力で調整しようとするねらいもあった。
『詳説 日本史B 改訂版』 山川出版社 2016(平成28)年3月18日 文部科学省検定済
この頃、ドイツは、独ソ不可侵条約を結び、ポーランドに侵攻します。
1940年になると、デンマーク、ベルギー、オランダ、フランスを併合します。
イギリスでは、チェンバレンがこれらの責任を取り辞任、後任にウィンストン・チャーチルが就きます。
首相に就任したチャーチルは、反独、親米ですが、ソ連とはドイツと戦うために手を組む関係でした。
一方、日本は、この頃を境に、反英米へと大きく流れが変わります。
そして、陸軍がこれらの世論に乗るかのように、三国同盟の締結を煽り、近衛待望論を醸成されていきました。
新体制運動
昭和十五年(1940年)、近衛内閣の新体制運動がマスコミを通じて流行します。
新体制運動は、アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツやベニート・ムッソリーニのイタリア・ファシスト党を模倣して、内政面で、新しい政治組織を結成しようとした運動です。
日本では、時流に取り残されまいと新体制に諸問題の解決を期待する運動としてマスコミを通じて高まり、「バスに乗り遅れるな」というスローガンが広く使用されるようになりました。
「バスに乗り遅れるな」は、個人が冷静に判断する機会を持たないように群集心理を煽る意図を含んだフレーズです。
まさに、プロパガンダを使って世論を誘導していきます。
この流れは、ソ連、ドイツ、イタリア、日本などで共産主義とファシズムが台頭し、三国同盟締結後の昭和十六年(1941年)の日米開戦、連合国対枢軸国による第二次世界大戦の拡大への伏線となっていきました。
IPR:太平洋問題調査会とその支流:昭和研究会
IPR(太平洋問題調査会:Institute of Pacific Relations)は、1930年代からトーマス・ビッソン、オーウェン・ラティモア、ハーバート・ノーマン、エドワード・カーターなど共産主義者、中国派がアメリカ国内の世論を日本人嫌悪と親中に誘導するための活動の場でした。
そして、IPR日本支部に当たる日本太平洋問題調査会の主要メンバーは、蠟山政道・牛場友彦・松本重治・浦松佐美太郎らであり、彼らが「東京政治経済研究所」を設立、のちに近衛文麿のブレーントラストとして昭和研究会へとつながっていきます。
1929年の第3回京都会議頃から、ロックフェラー財団がIPRに資金を拠出するようになります。
ロックフェラー財団は、石油王といわれたジョン・D・ロックフェラー(John D. Rockefeller)が設立した「全世界における人類の福祉」を目的に掲げる組織でした。
ロックフェラー三世、歴史学者のアーノルド・トインビーもこの京都会議に参加しています。
昭和八年(1933年)、近衛による「東亜新秩序」、「大政翼賛会」に大きな影響を与えるブレーントラストである昭和研究会が発足します。
昭和研究会は、後藤隆之助、左翼の蝋山政道、風見章らを中心に、ゾルゲ関係の尾崎秀実、西園寺公一らによって牛耳られていました。
これは、平沼騏一郎などの保守勢力から共産主義として批判・攻撃されるようになり、経済政策も財界から反対がでるほどでした。
そして、このロックフェラー財団が昭和研究会の事務所家賃、設立資金を拠出していたと言われています。
北進論・南進論
1941(昭和16)年6月、ドイツが突如ソ連に侵攻して独ソ戦争が始まった。これに対応するために開かれた同年7月2日の御前会議は、軍部の強い主張によって、対米英戦覚悟の南方進出と、情勢有利の場合の対ソ戦(北進)とを決定した。第2次近衛内閣は日米交渉の継続をはかり、対米強硬論をとる松岡外相を除くためいったん総辞職した。第3次近衛内閣成立直後の7月末、すでに決定されていた南部仏印進駐が実行され、これに対してアメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出の禁止を決定した。アメリカは、日本の南進と「東亜新秩序」建設を阻止する意志を明確に示し、イギリス・オランダも同調した。日本の軍部はさらに危機感をつのらせ、「ABCD包囲陣」の圧迫をはね返すには戦争以外に道はないと主張した。
『詳説 日本史B 改訂版』 山川出版社 2016(平成28)年3月18日 文部科学省検定済
昭和十六年(1941年)6月、独ソ戦争が勃発します。
そして、日本は北進しドイツと日本でソ連を挟み撃ちにするという戦略が、陸軍を中心に出てきます。
「北進論」です。
つまり、アメリカと戦争をせず、日本が生き残る絶好のチャンスがソ連への「北進」でした。
残念ながら、昭和天皇も北進案には消極的だったといわれています。
この北進論を阻止するように近衛内閣は内閣総辞職まで行い北進論者の松岡洋右外相を更迭、南部仏印侵攻を決定します。
日本国内のコミンテルン一派にとって、ソ連を崩壊させる「北進」が強まっては都合が悪いのです。
日本が勝利しては困る連中の策略に乗せられるように、近衛は「北進」ではなく「南進」を決定します。
日本は千載一遇のチャンスを取り逃がします。
裏で画策したのは日本を破滅させたい共産勢力です。
この時、日本にとって最大の敵は共産ソ連軍でした。
東アジアの平和を妨害した日露戦争から続くソ連の満州、朝鮮侵攻は、日本にとって脅威でした。
そして、満州建国の最大の理由は、ソ連共産勢力からの防衛でした。
ソ連の支援を受けてモンゴルに共産国家が誕生し、モンゴルを盾に先兵として使い、ソ連は満州侵略を狙います。
共産勢力が満州に及び治安が悪化、日本人の生命も脅かされていきます。
これを防ぐためには満州建国が急務でした。
つまり、共産主義の侵略を最も恐れていたのです。
しかし、近衛文麿は共産主義勢力を受け入れたため、飲み込まれていきます。
そして、近衛は、日英の関係改善を図ろうとしていた松岡洋右外相を更迭します。
松岡洋右は、教科書に記載されたような対米強硬論者ではありません、まったく逆です。
日本軍に北進されては困るので近衛が北進を潰すために画策したのです。
9月6日の御前会議は、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米(およびイギリス・オランダ)開戦に踏みきるという帝国国策遂行要領を決定した。日米交渉は、アメリカ側が日本軍の中国からの全面撤退などを要求したため、妥協点を見出せないまま10月半ばを迎えた。日米交渉の妥結を強く希望する近衛首相と、交渉打切り・開戦を主張する東条英機陸軍大臣が対立し、10月16日に近衛内閣は総辞職した。
『詳説 日本史B 改訂版』 山川出版社 2016(平成28)年3月18日 文部科学省検定済
ゾルゲ事件
昭和十六年(1941年)10月、日本を揺るがす大事件が発生します。
ゾルゲ事件です。
後にヴェノナ文書によりアメリカ共産党のスパイであったことが明らかになった宮城与徳が、特高警察に逮捕されたことがきっかけとなります。
この宮城与徳から、ドイツ人記者でソ連GRUのスパイであったリヒャルト・ゾルゲと元朝日新聞記者で近衛のブレーン・尾崎秀実を再会させる舞台設定をしたことが発覚します。
宮城与徳の供述から、ゾルゲ、尾崎秀実がソ連コミンテルンのスパイであることが判明し、逮捕されました。
翌年には、参考人取り調べにより、尾崎秀実の親友・西園寺公一、犬養健、朝日新聞政治経済部部長・田中慎次郎などが検挙されました。
近衛文麿にも嫌疑がかけられますが、かろうじて逃げ切ります。
なお、ソ連のスターリンはこのゾルゲの情報を信用していなかったと言われています。
そして、1944年11月7日のロシア革命記念日に、ゾルゲと尾崎の死刑が執行されました。
終戦後、田中慎次郎は朝日新聞に再入社し、論説委員副主幹になって、後の朝日新聞の思想へと繋がっていきます。
その他の逮捕者は終戦後、ことごとく釈放されたのは言うまでもありません。
ハル・ノート
〈問い〉 「真珠湾攻撃は『ハル・ノート』で無理難題をいわれ、やむなくやった」という人がいます。「ハル・ノート」とは何ですか?(東京・一読者)
〈答え〉 太平洋戦争の開戦は、アメリカが日本の要求を拒否し、ハル・ノートで、無理難題をいってきたのでやむをえなかったのだというのは“靖国派”がしきりに流している議論です。
日本共産党 2006年12月7日(木)「しんぶん赤旗」から引用
“靖国派”のデタラメさは、このアメリカの要求は「今までの蓄積はすべて捨てろと言う事である」などと、日本の領土拡大の歴史を既得権として当然視して、日本の開戦を合理化していることです。
(一部抜粋)
これは、日本共産党が自己のサイトにおいて、ハル・ノートについて自問自答している記事です。
このように日本共産党が言っているということは、その真逆が正論だということでしょう。
つまり、「今までの蓄積はすべて捨てろ」という無理難題をアメリカが言ってきた、アメリカが戦争を仕掛けてきた、というのが事実でしょう。
この「ハル・ノート」の素案を書いたのは、ハリー・デクスター・ホワイトという、アメリカ合衆国の官僚であり、ソ連のスパイであり、ユダヤ人です。
そして、フランクリン・ルーズベルト政権の財務長官であるユダヤ人、ヘンリー・モーゲンソーの下で財務次官補を務めた人物です。
ハリー・デクスター・ホワイトは、1930年代からGRU/KGBのスパイとしてソ連諜報部に情報を提供していました。(ヴェノナ文書)
ホワイトとの面談の直後、パブロフはコード名「クリム」を使って「すべて計画通りで異常なし」とモスクワに報告した。
そして、ゾルゲが「日本は1941年、ソ連ではなくアメリカと戦うと決定した」と報告したにもかかわらず、パブロフは後年、「日本がソ連を背後から攻撃する可能性が残っていた。アメリカの(日本との)開戦によってその脅威が消滅したのであるから、そのような確証を得るために取られたあらゆる行動は我々の利益にかなうものだった」と回顧している。
(『ヴェノナの秘密』( )内は引用者)ジョン・コスターの『雪作戦 (Operation Snow)』は、「軍備の大半をアメリカに売り渡せという要求を日本政府が認めれば国内で反乱が起きるに決まっているので、日本は絶対に受けれるはずがなかった」と述べています。
雪作戦が日本を日米開戦へと追い込むために計画されたものであり、実際に日本は、この雪作戦によって生まれたモーゲンソー私案に基づくハル・ノートを契機に日米開戦を決断したのです。
『日本は誰と戦ったのか コミンテルンの秘密工作を追及するアメリカ』著者: 江崎道朗
これは、KGBの工作員だったピターリ・グリゴリエッチ・パブロフの証言に基づくハル・ノートに関する記述を抜粋したものです。
ソ連・コミンテルンが積極的工作を行った結果「日米開戦」に至ったという確証はありませんが、ハル・ノートの情報を事前に掴んでいたことは確かなようです。
山本五十六
昭和十四年(1939年)(昭和14年)8月30日、山本五十六が第26代連合艦隊司令長官に就任します。
そして、これこそ、日本を奈落の底に陥れた真珠湾奇襲攻撃の始まりでもありました。
なぜ、真珠湾攻撃が成功したのでしょうか。
なぜ、ハワイなのでしょうか。
そして、ハワイを占領しなかったのはどうしてでしょうか。
「当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能にするために、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする」ための攻撃計画でした。
そして、なぜハワイであってインドシナではないのでしょうか。
日本政府は、南進して仏印に攻め込むというのが方針だったはずです。
なぜ、アメリカを激怒させるような真珠湾攻撃を行う必要があったのでしょうか。
昭和十六年(1941年)11月26日、択捉島の単冠湾(ヒトカップ)を出港した日本機動部隊はその瞬間からアメリカによって追尾・モニターされていたといいます。
どこまで奇襲攻撃の計画がアメリカ側に漏れていたのかは諸説あり、確定していませんが、日本はアメリカ側の策略に嵌った可能性が高いといえます。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、三期目の選挙の公約として決して参戦しないと国民に約束していたので、英・支を助けるために戦争することはできませんでした。
しかし、真珠湾攻撃によってアメリカ国民は激怒、参戦の理由がここに成立しました。
さて、山本五十六はアメリカ側の工作員なのか、それともただの愚将なのか。
証拠がないため、憶測となりますが、工作員の可能性があります。
渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』によると、山本五十六海軍大将は世界秘密結社・フリーメイソンのメンバーで、ユダヤ勢力→国際金融資本の「日支闘争計画案」の計画通り、日本の“敗戦”を推し進めた主犯格とのことです。
工作員ではないとしても、まったく方向違いなハワイを中途半端に攻めるというのは、愚策であり、愚将であったと言って間違いないでしょう。
木戸幸一内大臣は、9月6日の御前会議決定の白紙還元を条件として東条陸相を後継首相に推挙し、首相が陸相・内相を兼任する形で東条英機内閣が成立した。新内閣は9月6日の決定を再検討して、当面日米交渉を継続させた。しかし、11月26日のアメリカ側の提案(ハル=ノート)は、中国・仏印からの全面的無条件撤退、満洲国・汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の実質的廃案など、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものであったので、交渉成立は絶望的になった。12月1日の御前会議は対米交渉を不成功と判断し、米・英に対する開戦を最終的に決定した。12月8日、日本陸軍が英領マレー半島に奇襲上陸し、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃した。日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告し、第二次世界大戦の重要な一環をなす太平洋戦争が開始された。
『詳説 日本史B 改訂版』 山川出版社 2016(平成28)年3月18日 文部科学省検定済
「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」
これは、日露戦争時に明治天皇が詠まれた和歌です。
「四方の海 みなはらからと 思ふ世に などあだ波の たちさわぐらむ」
これは、日露戦争時に明治天皇が詠まれた和歌を、昭和十六年(1941年)9月6日、日米開戦の是非を問う御前会議が開かれた時に、昭和天皇がニ度詠まれたものです。
一箇所変えられているのが、「あだ波」です。
意味は、むやみやたらに立ち騒ぐ波。(Weblioより)
解釈はここではしませんが、昭和天皇が最後まで日米開戦を望んでなかったということが察せられるものと言われています。