邪馬台国宮崎説 と神武天皇の年代推定(4)

邪馬台国宮崎説 と神武天皇の即位年代推定 についてさらに検討してみましょう。
前回までの邪馬台国と卑弥呼の自説はこちら

干支と平均在位年数から神武天皇の即位年代を推定

著名人による神武天皇の年代推定を紹介してきました。
『日本書紀』の記述をそのまま信じて、紀元前660年に神武天皇が即位したとすると、弥生時代中期となり、この年代での即位はほぼありえないでしょう。

『日本書紀』の即位干支から推定する

神武天皇の即位年代について、紀元前660年説はほぼ否定されています。
『日本書紀』には天皇の即位干支が掲載されています。太歳○○となっているところです。
干支というのは、エトの組み合わせで、十二支と十干があります。
子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)の十二支と
甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)の十干があります。
ちなみに、2021年の干支は辛丑(かのとうし)です。60年周期なので次の辛丑は2081年です。

『日本書紀』に神武天皇の即位は、辛酉(かのととり)と書かれています。
神武天皇の時代に該当しそうな辛酉は、下記の通り61年、121年、181年、241年、301年、361年の範囲にあると推測されます。

『日本書紀』に記載されている干支が正しいか否かは、正しい年代が特定できる時代から判断できます。
年代が特定できるのは、推古天皇の593年、聖徳太子が摂政になったのが593年です。
(詳細は、長浜浩明氏、安本美典氏など著名人の著作を参照願います)

スライドを見ると、干支が怪しいのがわかります。
たとえば、開化天皇と崇神天皇の干支が同じ甲申ですし、景行天皇と成務天皇の干支が辛未で同じです。
明らかにどちらかが間違っているか、あるいはどちらも間違いかも。

干支だけでは神武天皇即位年代には辿り着けそうもありません。
やはり他の推定方法が必要です。
そこで、平均在位年数を組み合わせてみましょう。
平均在位は奈良時代は平均10年、履中天皇から持統天皇までは平均11年となっています。
神武天皇から推古天皇までが33代ありますので、平均10年とすると33✕10=330、593ー330=263年、平均11年とすると33✕11=363、593ー363=230年となります。
230年~263年の間ですと、辛酉なら241年が該当します。

仮ではありますが、神武天皇の即位を241年とします。
ピッタリとはいきませんが241年という仮説を立てて次に行きましょう。

240年頃の邪馬台国と倭国

さて、神武天皇が即位したとされる240年頃の邪馬台国はどのような状態だったでしょうか。

魏志倭人伝の卑弥呼と邪馬台国の年代

卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。
正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。
魏志倭人伝の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。
その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。
再び卑弥呼の宗女(一族or宗派の女性)である13歳の壹與を王に立て国は治まった。
先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。

Wikipediaより引用

魏志倭人伝をみると、ちょうど神武即位の年代にあたる238年、卑弥呼が魏に使者を送り「親魏倭王」を称されたとあります。
やはり、卑弥呼は九州、神武天皇は大和と、別々の政権であることがわかります。
238年ですと、まだ神武天皇は即位前で、国王ではないというのもアリかもしれません。
同じ政権であれば神武天皇やその前後の鵜草葺不合命や綏靖天皇が親魏倭王になるはずなのですが、皆男王であり女王ではありません。
神功皇后(成務天皇と仲哀天皇の時代)まで女帝は出てきません。
親魏倭王は女王であって男王ではないのですから、『日本書紀』のこの年代に女王はいません。
そうなっていないということは、別政権なんでしょう。
『日本書紀』『古事記』が邪馬台国のことに触れないのが理解できます。
つまり、文脈とは連動しない他の政権(九州政権)のことには触れる必要はないということです。

卑弥呼が死亡するのは247年頃です。
以て死す。をどう訳すかによって議論が分かれます。
病死なのか殺害されたのか。
卑弥呼死後男王を擁立しますが国が乱れて、壹與(台代)という女王を立てると国が治まったといいます。

邪馬台国宮崎説 を採用する場合、神武天皇が日向から大和に向かって東征に出発する、いわゆる「神武東征」はどう説明すれば良いのでしょうか。

神武東征と邪馬台国宮崎説 の関係

神武天皇(神日本磐余彦尊)の系図を作りました。
系図をみてわかるのが、素盞鳴尊(スサノオ)と天照大神(アマテラス)の誓約で生まれた天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)の系統に神武天皇が入っているということです。
素朴な疑問は、スサノオとアマテラスの姉弟がなぜ誓約でこどもを作ったのかということです。
第一の疑問は、スサノオとアマテラスは本当に姉弟なのか?
第二の疑問は、アマテラスは女性なのか男性なのか?
第三の疑問は、本当に姉弟だとしても、無理やりその子孫を系統に入れたのはなぜなのか?

スサノオとアマテラスの姉弟がなぜ誓約でこどもを作ったのか?

子供を儲けたということは、姉弟の関係ではなく夫婦の関係だったのではないかというのが素朴な結論です。
わざわざ誓約としたのには何か不都合な事実があって、それを隠したかったのではないかと思えてきます。
しかし、『日本書紀』の中で、スサノオとアマテラスはお互いを姉弟と呼んでいます。
『日本書紀』は、不都合な真実をあえて隠すためにこの二神を天津神として姉弟に仕立て上げ、誓約として子供を誕生させたと仮定します。
まだ憶測にすぎませんが、敢えてアマテラスの由緒を隠し、神武天皇を皇統に入れるための口実として姉弟、誓約としたのではないでしょうか。

天照大神はどんなお方だったのでしょうか。

天照大神(あまてらすおおかみ)、または天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に主神として登場する神。女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神とされる。『記紀』において、アマテラスは太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。

Wikipediaより引用

「女神と解釈され」とあるように、明確に女性だという記述はありません。
スサノオとアマテラスがお互いを姉弟とよんでいることからの推測です。

本来、皇統の祖神は、男神であるのが本来の姿ですし、天皇が万世一系というなら男神であるはずです。
露骨に女神ですとはいえないので、言外に女神と匂わす表現を用いているのではないかと思えます。
『日本書紀』編者の抵抗を見て取れます。
「そんな大嘘かけるかよー、恥ずかしいわぁー、、、。。。」との声が聞こえてきます。(私だけか)
おそらく『日本書紀』作成時、男神として描く構想だったのが発行段階で女神に変更されたのではないでしょうか。
その背景には持統天皇誕生の正統性を述べる必要性があったという主張があります。
その詳細は『続・神々の体系 記紀神話の政治的背景 (中公新書)上山春平著』など著名人が書いていますのでそちらを参考にしてください。

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