織田信長と本能寺の変の首謀者

織田信長
織田信長 Wikipedia

織田信長の事蹟

「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食ふは徳川」
これは有名な狂歌です。
天下を横取りした徳川家康を風刺した歌として有名ですが、まさにこの天下統一の時代をうまく表現しているとも言えます。

織田信長は、天文三年(1534年)5月、尾張国で生まれました。
父は織田信秀、母は土田御前(どたごぜん)です。
土田御前は土田政久の娘とされますが、出自は不詳です。

織田信長が百家争鳴、混乱状態となっていた日本で天下統一の足場を築きました。

それでは、なぜ織田信長が天下統一までたどり着くことができたのでしょうか?

それには織田信長が使った幟にヒントがあります。

信長が使った幟が、左の画像のような永楽通宝の絵柄の旗印です。

幟に永楽通宝というお金の旗印を用いた武将は珍しかったでしょう。
なぜ永楽通宝の旗印を用いたのか、理由は明確になっていませんが、貨幣経済を重視していたことの現われであることは想定できます。

信長の経済政策として楽市楽座、関所の廃止があります。
楽市楽座は、市場経済の活性化を狙ったものです。
関所の廃止は、既存の土地と農業支配体制の変革という意味があります。
どちらも経済重視の姿勢であり、商人、貿易業を優遇するものでした。

信長が経済を重要視したのは、津島での成功があったと想定できます。
父の織田信秀の時代、津島神社の門前町である津島を支配し勢力を拡大します。
津島は海上交通の要衝として栄え、織田の富の源泉となっていました。

そしてもう一つの経済政策のポイントが、南蛮貿易です。
イエズス会との交流によって、南蛮貿易が拡大します。
しかし、南蛮貿易の弊害も増えていました。
貿易とキリスト教がセットになっていたため、キリスト教が国内へ浸透していきました。

織田信長の家系

織田氏の家系は、越前国織田荘(福井県丹生郡越前町)にある国幣小社・越前国二宮の劔神社を氏神とし、発祥とすると言われています。
応永七年(1400年)、斯波氏が尾張守護を加えられると、織田氏は尾張守護代を世襲するようになりました。
織田氏最初の守護代は織田将広の子の織田常松(織田教広)であるとされ、この頃、織田一党は越前から尾張へ移住したと見られます。

  • 織田信秀:永正八年(1511年)、織田信定の長男として生まれ、津島神社の門前町である津島を支配し勢力を拡大する。
  • 織田信定:生年不詳。越前、尾張の守護大名斯波氏の被官・織田流の家系で、織田弾正忠家の当主。信長の祖父。
  • 織田良信:尾張国の守護代である織田氏の一族で、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」(勝幡織田氏)の祖とされる。
  • 織田敏信:清洲城主・織田大和守敏定の嫡男とされ、尾張上四郡を治めた「織田伊勢守家」の岩倉城主・織田信安の父とされる

関連記事:徳川家康の真実

本能寺の変

日本史上最大級のミステリーとされるのが本能寺の変です。
本能寺の変は、天正十年6月2日(1582年)明け方、明智光秀が謀反を起こし、本能寺(京都市)に居た織田信長を襲撃したとされる事件です。
なぜ明智光秀が主君である信長を襲ったのか、動機も、事件の詳細もよく分かっていないのが、ミステリーといわれる所以です。

本能寺の変の首謀者について諸説ある中で、明智光秀単独犯説、黒幕存在説をベースに数多くの説が論じられています。
その中で私が関心を持ったのが、イエズス会謀略説です。

本能寺の変は誰が起こし、誰が首謀者か

副島隆彦さんの著書『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(副島隆彦 PHP研究所)は、イエズス会が真犯人だと述べています。

信長が1559年3月に、京都で将軍に拝謁したそのとき、将軍義輝の側に細川藤孝が、幕府奉公人のひとりとして控えていたのである。
そして、その後ろの方に足軽衆として、藤孝の長年の家来である明智光秀がいたのである(光秀は信長、藤孝より6歳上)。
この翌年には、もう桶狭間の戦い(1560年5月)が起きた。
それから22年後(1582年)に本能寺で信長が死ぬ。
が、この信長殺しの真実の実行犯は、バテレン(イエズス会)たちである。
明智光秀ではない。
明智ごときに、日本一恐ろしい信長を殺せるわけがないのだ。
だが、ローマ・カトリック教会の伴天連たちなら世界基準で動いた白人たちだから信長を殺せた。
光秀は、そのワキ役(犯罪の補助者)であったに過ぎない。
そして、その直後に光秀は真犯人に仕立て上げられ、「変(6月2日)」から11日後の山崎の合戦(6月13日)で口封じで殺されたのだ。

『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(副島隆彦 PHP研究所)

海外勢力の力がないと信長を倒すことは不可能だったというのは、謎の多い犯人説として理解できる説です。
イエズス会に紛れ込んだ勢力が犯行を計画し、罪を明智光秀になすりつけたと考えることもできます。
確かに、頭は良さそうですが、それほど実力のあるとは思えない明智光秀が、単独で計画し実行したとは考えにくいです。
できるとすれば、国外勢力、それも信長に近い勢力がいたことは可能性として高いのではないでしょうか。

短期間のうちに大量に武器である鉄砲を自国で生産して軍事国家になった戦国時代の日本。
これには、ポルトガル商人とイエズス会が関係しています。

16世紀、ポルトガルや隣国スペインも海洋進出に乗り出しました。
スペインのコンキスタドール(征服者)、エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサは、メキシコのアステカ帝国を制圧します。
コルテスはアステカにおいて、彼らの黄金を略奪し、インディオの大量虐殺を行いました。
中央アメリカ、南アメリカの財宝は彼らに略奪され、ヨーロッパ大陸に流入していきました。
ボリビアのポトシにあるセロリコ銀山からは、4万トンを超える銀が算出され、3百年間で、アメリカ大陸からは、15万トンもの銀が算出されたといいます。

ポルトガルも、銀を狙って日本を征服しようとしたのですが、日本の武将の手強さに断念し、貿易と布教に専念します。
イエズス会は、アジア地域を重視、ポルトガル王の援助を受けていて、権益の擁護、交易を促進させる役割を担っていたのです。
そして、イエズス会が、武装集団化することを認められていたことは、日本歴史学界隈であまり語られていません。
長崎でイエズス会が軍事介入した事例があります。

島津 ・大友・龍造寺の三家や各地の国衆が戦った戦国時代の九州の中で、元亀2年(1571)に南蛮貿易の港として開かれた長崎は、特異な場所だった。天正8年(1580)に、その地を領していた大村純忠によって、イエズス会に寄進されたからだ。

永禄6年(1563)に受洗した大村純忠は、龍造寺隆信によって圧迫されており、天正5年(1577)に人質を出して従属している。

イエズス会領となった長崎は武装を進める。特に、キリシタン大名である大村純忠や有馬晴信に脅威を与えている龍造寺隆信を敵視し、ルイス・フロイスは彼を「キリシタン宗団の大敵」「キリシタン宗門の迫害者」と呼んだ。

天正10年(1582)にヴァリニャーノが天正遣欧使節とともに日本を離れると、コエリョは軍事路線を進め、沖田畷の戦いで有馬晴信を支援。島津・有馬の連合軍が龍造寺隆信を破ると自信を深め、秀吉のバテレン追放令(1587年)に対して、スペイン領マニラに援軍を求めて対抗しようとするまでに至る。

こうした動きが、秀吉や徳川家康のイエズス会に対する警戒心を高め、禁教令へと繋がったといえよう。

戦国時代、長崎はイエズス会の領地だった!?

織田信長の年表

  • 天文三年(1534年)5月 織田信長生誕。尾張国・織田信秀と土田政久の娘の間に嫡男として誕生。幼名は吉法師
  • 天文十五年(1546年)古渡城にて元服し、三郎信長に改名
  • 永禄三年(1560年)5月 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る
  • 永禄十一年(1568年)2月 北伊勢を攻め三男の信孝を神戸具盛の養子とする
  • 永禄十一年(1568年)9月 足利義昭を奉じて入京
  • 永禄十一年(1568年)10月 分国の関所を撤廃する
  • 永禄十二年(1569年)3月 撰銭令を出す。ルイス・フロイスの京都居住を認める
  • 永禄十二年(1569年)10月 伊勢を平定し、二男信雄を北畠氏の養子とする
  • 元亀元年(1570年)6月 信長・家康連合軍、浅井長政・朝倉義景を近江の姉川でやぶる(姉川の戦い
  • 元亀二年(1571年)9月 延暦寺焼き討ち
  • 元亀三年(1572年)9月 足利義昭が挙兵するが平定される
  • 元亀三年(1572年)12月 武田信玄、徳川家康を遠江の三方ヶ原でやぶる(三方ヶ原の戦い)
  • 天正元年(1573年)2月 武田信玄没
  • 天正元年(1573年)7月 足利義昭を追放する(室町幕府の滅亡)
  • 天正元年(1573年)8月 朝倉義景、浅井長政を攻め落とす
  • 天正二年(1574年)9月 長島の一向一揆を攻め滅ぼす
  • 天正三年(1575年)5月 信長・家康連合軍が、武田勝頼をやぶる(長篠の戦い
  • 天正四年(1576年)2月 安土城を築く
  • 天正七年(1579年)7月 イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが肥前国 口ノ津港(長崎県)に到着
  • 天正九年(1581年)2月 ヴァリニャーノが信長に謁見する
  • 天正十年(1582年)6月 信長、明智光秀による謀反で本能寺にて自害(本能寺の変

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