藤原不比等の出自と藤原氏の闇

藤原不比等
藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代) Wikipediaより引用

藤原不比等の出自

前回の「持統天皇の謎」でも書いたように、藤原不比等の出自は謎に包まれて、藤原氏の闇を象徴する人物です。
そしてなによりも、藤原不比等の父親であり、藤原氏の祖先である中臣鎌足(藤原鎌足)も謎多き人物なのです。

658年、藤原不比等は、奈良県明日香村で藤原(中臣)鎌足の次男として生まれました。(天智天皇のご落胤説あり)
ただし、長男の定恵が天智天皇のご落胤であるという説もあり、こちらの方が信憑性が高いようです。
不比等という名前について、当時は「史」(ふひと)でしたが、一般的には「不比等」とされています。

藤原不比等については、百済からの渡来人系氏族・田辺史大隅の安宿(あすか)で養育されていたという説があります。

飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)は、大阪府羽曳野市にある式内社で名神大社です。
現在の御祭神は素盞嗚命ですが、創建時は、飛鳥戸氏の祖神・昆支王でした。
古代の安宿郡であり、竹内街道が近くを通り、奈良と河内の交通要所でした。
周辺には観音塚古墳や飛鳥千塚古墳群があります。

飛鳥戸神社

過去記事:藤原不比等と持統天皇の共通点

天武天皇が君臨している間、不比等はまったく表に登場していません。
やはり、天智天皇系グループであったため、対抗する天武天皇から迫害されていたか、距離をとられていたとみられます。

県犬養三千代(橘三千代)

県犬養三千代は、正確な年代は不明ですが、天智4年(665年)頃、生まれたとみられています。
出身地は、河内国の安宿(大阪府羽曳野市)です。
不比等、持統と同じく、三千代も飛鳥戸部系氏族に養育されていたのです。
県犬養三千代と藤原不比等の間に生まれた女児の名前を「安宿媛」といい、河内国の「安宿」に基づいた名前です。
県犬養氏は、壬申の乱で功のあった屯倉を守護する中堅氏族です。
霊亀二年(716年)、藤原不比等と三千代の娘である、安宿(光明皇后)が皇太子首(聖武天皇)の后となっています。
三千代が脚光を浴び成功したのは、持統天皇以降の後宮で影響力を発揮したからです。
天武、持統、元明、元正天皇など、歴代の天皇から深く信頼されました。
元明天皇の乳母だったともいわれています。

このように百済系渡来人氏族一派が外戚となって天皇を動かしていく時代が到来します。
この人脈が、後に藤原の栄華をもたらすことになります。

藤原不比等の事績

689年、藤原不比等は裁判をつかさどる官人としてデビューを果たします。
藤原不比等は、持統天皇が即位すると、公に登場してきます。
持統三年(689年)2月、判事に任命されたのが『日本書紀』初出です。
乙巳の変で鎌足が登場したのと同じように、藤原不比等が突然登場するのです。
そして、天武天皇の心配を無下にするように大津皇子を謀反の罪で自害に追い込み、草壁皇子を即位させます。
不比等がこの策略に関わっているかどうかは不明です。
しかし、あの乙巳の変を起こした鎌足の血を引く不比等です、権謀術数を使うのは必定でしょう。

694年に持統天皇は藤原京に遷都、首都機能を備えた本格的な都でした。
『扶桑略記』には、持統天皇が藤原の私邸に宮を置いた、と書かれています。
しかし、早くも708年には元明天皇によって遷都の詔が発せられます。

この後、700年、大宝律令が制定され不比等の名前が筆頭に登場します。
藤原不比等の独裁政治が始まります。

『日本書紀』は、天武天皇が命令し、不比等が完成させたと見られます。
「東大寺献物帳」には、不比等が草壁皇子から黒作懸佩刀を受け取ったことが記載されています。
黒作懸佩刀は、草壁皇子ー>藤原不比等ー>文武天皇ー>藤原不比等ー>聖武天皇と渡ります。

不比等は氏寺の山階寺(京都市山科区)を奈良に移し、710年、興福寺(奈良市登大路町)と改めました。
養老四年(720年)に死亡、淡海公を贈諡されています。

藤原氏の闇

天武天皇が編集を命じて作られた『日本書紀』を改ざんし、乙巳の変で蘇我氏を貶め、天照大神という祖神を改変したのが藤原不比等ではないかという疑いがあります。
藤原氏の闇を象徴するのが『日本書紀』改ざんです。
日本古来から続く伝統的和を重んじた天皇を中心とした皇親政治から、天皇を傀儡とする一家独裁政治へ移行させたのが藤原氏です。
藤原不比等は、律令制をうまく使い、天皇の外戚となり権力を得ていきます。
その後、不比等の息子たち、藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)が時には傍若無人に権力を得ていきます。
そして、大げさかもしれませんが、大東亜戦争時に首相になった、近衛文麿までこの藤原氏の系統が続いた、というのは事実です。

その藤原氏による独裁政権の足元を固めた事件が長屋王の変です。

長屋王の変

長屋王は、天武十三年(684年)、天武天皇の御子である高市皇子と、御名部皇女の長男として生まれました。
長屋王の父親である高市皇子は、母親が宗形徳善の娘・尼子娘の子という卑しい身分の出自だったため、皇位に就くことはならず、持統によって排除されていました。
しかし、703年、持統が崩御すると、長屋王が脚光を浴び始めます。

『続日本紀』によると、長屋王は、慶雲元年(704年)、正四位上という位を与えられ、その後順調に昇進し、霊亀二年(716年)、正三位となります。
720年、不比等が死ぬと、不比等に代わり長屋王は、従二位右大臣(721年)になります。
そして、神亀元年(724年)、首皇子が即位し聖武天皇になり、長屋王は、正二位左大臣に昇格、最高権力を得ます。

神亀六年(729年)2月に長屋王の変が起こります。
『続日本紀』によると、729年2月、漆部造君足と中臣宮処連東人による、「長屋王がひそかに左道を学び、国家を傾けようとしている」という密告があったことが変の発端でした。
その夜、朝廷は使を派遣して三関(鈴鹿関・不破関・愛発関)を固めました。
さっそく、式部卿の藤原宇合は、衛門佐の佐味虫麻呂・左衛士の佐の津島家道・右衛士の佐の紀佐比物などを派遣して、六衛府の兵を率いて、平城京の長屋王宅を取り囲みます。
翌日に大宰大弐の多治比県守・左大弁の石川石足・弾正の尹の大伴道足を仮の参議としました。
午前十時頃、舎人親王・新田部親王・大納言の多治比池守・中納言の藤原武智麻呂、右中弁の小野牛養・少納言の巨勢宿奈麻呂らを長屋王宅に派遣し、長屋王の尋問をはじめます。
この翌日十二日、長屋王は自尽を命じられ、その妻の吉備内親王と四人の子どもたちも自死することとなります。
十五日には、聖武天皇が詔し、長屋王は残忍で凶暴な性格であったため、悪の道に入り、凶暴な性格が謀反となって現れたのだと、糾弾します。
さらに、天皇の慈悲の心により本来は法の網目を粗くしているけど、その網目にもかかるほどだったと言われるのです。

もちろん、これらは勝者の論理である藤原氏側の筋書きであり、長屋王は無実の罪を着せられて命を奪われた冤罪だったというのが通説です。

この戦い、藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)が、自分たち一族の権力が低下するのを恐れて行った陰謀事件とみます。
その後、藤原氏は権力を掌握しますが、無実の罪で葬り去った長屋王の祟りに怯え慄いたのは藤原氏です。
正当な処罰であれば祟りに怯えることは無いでしょう。
乙巳の変以降、藤原氏の系統は、なりふり構わず暴虐を繰り返します。
これは、古から続く、和をもって尊しとなす、という日本人の思想に反する行いであるのは確かです。
大陸系の政治は虐殺の歴史です。
確かな証拠は今のところありませんが、藤原氏にはアジア大陸系の思想が染み込んでいるのではないでしょうか。

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