継体天皇・男大迹王
継体天皇は、名を男大迹王と言い、謎の多い天皇としても有名です。
武烈天皇が後継を指名せずに亡くなられ、御子もいなかったため、時の為政者である大臣等が世継ぎを探すことになりました。
皇統を継いだ継体天皇
武烈天皇が崩御され、皇統を継ぐ方がおられず、物部麁鹿火、許勢男人大臣らが協議し大連・大伴金村が神輿を備えて、男大迹王を高向郷に御迎えに参りました。
河内国交野郡樟葉宮にて第26代天皇・継体天皇が即位されました。
太歳丁亥
継体天皇の謎
- 王朝断絶説
- 継体天皇の出自
- 息長氏との関係
継体天皇の皇位継承時、王朝が途絶え新王朝がたったというのが王朝断絶説です。
継体天皇は応神天皇5代の末裔とされているが、これが事実かどうかは判断がわかれている。水野祐は継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したとした。
Wikipediaより引用
また、即位後もすぐには大和の地にはいらず、北河内や南山城などの地域を転々とし、即位20年目に大和に入ったことから、大和には継体天皇の即位を認めない勢力があって戦闘状態にあったと考える説(直木孝次郎説)や、継体天皇はその当時認められていた女系の天皇、すなわち近江の息長氏は大王家に妃を何度となく入れており継体天皇も息長氏系統の王位継承資格者であって、皇位簒奪のような王朝交替はなかったと考える説(平野邦雄説)がある。
なお、継体天皇が事実応神天皇の5代の末裔であったとしても、これは血縁が非常に薄いため、王朝交替説とは関わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い。
これらは、戦後流行した皇国史観の排除から出てきた”仮説”です。
参考となる説ですが、すべて仮説の域を出ず確証がないため、最近これら仮説は後退しています。
この中に、ヤマトに入れず戦闘状態にあったというのがありますが、この時期に大和で戦争の痕跡はありません。
地方豪族が皇位を簒奪したという説は、この時代に武力で奪うことができるのか疑問です。
崇神や仁徳の時代に比べて天皇による皇位継承が確立しているのがこの時代です。
それも物部氏や大伴氏などが大臣として存在している中、急に武力で天皇を簒奪するのはほぼ不可能です。
紛争、抗争以外のなんらかの事情で血縁が薄くなった可能性はあると思います。
遺伝学、疫学的観点で血統が途絶えそうになることは考えられます。
現代でも偶然が重なり男系の後嗣が減り、後嗣継承問題が発生しているのは同じことです。
天皇が急死してしまい、近縁の皇族に拒絶されたため、やむを得ず遠縁の皇族を探したということでしょう。
継体天皇は仁賢天皇、武烈天皇の系列から皇后を出していることからも、皇位が継続していることがわかります。
下表を見るとわかるのですが、継体天皇について福井県に多くの伝承が残っています。
継体天皇として即位する前の男大迹王としての伝承地が福井県の三国地方です。
神社伝承から、継体天皇の出自が越の国・福井であることがわかります。
継体天皇は、出自である息長氏が皇位を奪ったのではないかという説があります。
『古事記』に、袁本杼命を近江国から上京させ、手白髪命と結婚させて、天下を授けた、とあります。
岡田精司氏等が主張した、近江国坂田郡の「息長氏」が皇位を簒奪したというものです。
近江に継体天皇の伝承がほとんど無いため、論拠が薄い説であることがわかります。
逆に、女性天皇を擁立するのではなく、男系天皇の継承が重視されていたことが読み取れます。
任那四県の割譲
継体天皇6年、百済が任那4県(上哆唎・下哆唎・裟陀・牟婁)を欲しいと願いました。
哆唎の国守、穂積臣押山が奏上して「この四県は百済に近く、日本とは遠く隔たっています。いま百済に賜るのが保全のために最善策と思われます。しかし、百済に合併しても後世の保安は保証できず、まして、百済と切り離しても何年も持たないでしょう」と言いました。
大伴金村もこれに同調し、物部麁鹿火を勅使として百済に派遣しようとした時、麁鹿火の妻が諫言します。
「高麗・百済・新羅・任那などは、神功皇后が武内宿禰とともに国毎に宮家を設け、海外でのわが国の守りとされ、長く続いてきた由来があります。もしこれを割いて他国に与えたら、もとの領域と違ってきます。後世長く非難されるでしょう」と。
麁鹿火は病気と偽って勅宣を断り、別人が勅使として上表文に基づき任那四県を与えられました。
大兄皇子は、先に事情があって、これに関与せず後になって勅宣のことを知らされました。
大兄皇子は、驚いて改めさせようとされ、百済に勅使を派遣しました。
「父の勅宣をなぜ子の皇子がそれに背くのか」と拒否しました。
世間では、「大伴金村大連と穂積臣押山とは、百済から賄賂をもらっている」という流言が広まりました。
これがいわゆる「任那四県割譲事件」です。
今城塚古墳と太田茶臼山古墳
今城塚古墳は、大阪府高槻市郡家新町の住宅地に点在する前方後円墳です。
墳丘長は190m、全長350mという大規模古墳です。
今城塚古墳は、継体天皇陵であるという説が有力です。
ただし、宮内庁は、今城塚古墳から1.3km西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を、継体天皇陵に治定しています。
今城塚古墳からは、様々な埴輪が出土しています。
- 千木を飾る高床の家
- 魚と鳥の絵を飾る高床の家
- 大刀
- 鹿の絵のある盾
- 高杯形の器台
- 正装の武人
- 巫女
なぜ、太田茶臼山古墳が継体天皇陵に治定されたかというと、慶長伏見地震の震源となった断層が今城塚古墳の直下を通っており、この地震で墳丘の形が大きく崩壊したことが原因だったようです。
江戸末期の学者たちが元の形が失われた今城塚古墳ではなく、太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定したのではないかということです。