日本国の領域と朝鮮半島:3世紀以降
前回は、BC2000年以降、中国由来の箕子朝鮮、衛氏朝鮮が朝鮮半島に発生し、楽浪郡、帯方郡に移っていくAD300年頃まで書きました。
今回は、中国の支配から離れ、朝鮮半島に独立した国家が成立していく過程を見ていくことにします。
元々、地形的に中国大陸の一部として存在した朝鮮半島ですので、地理的に中国などの大陸文明の影響力が大きく及ぶ地域です。
この後も大陸の影響を受け続けることになります。
一方、南部では日本(倭)から渡ってきた人々が定着し、影響力を及ぼします。
日本に関する記述が見られるようになるのが『三国志』魏書東夷伝倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』の邪馬台国です。
三韓の祖に倭人がいた?
馬韓・辰韓・弁韓の建国史は、金富軾の作った『三国史記』および僧・一然が著した『三国遺事』に書かれています。
『三国史記』とは、12世紀、高麗の時代に作られた朝鮮の正史です。
『三国遺事』とは、13世紀末に作られた私撰の歴史書です。
脱解尼師今(だっかいにしきん)という新羅第四代の王がいます。
“脱解本多婆那國所生 其國在倭國東北一千里”
脱解は、元々多婆那国の生まれで、その国は倭国の東北千里の所にある。
倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王妃が、妊娠してから7年後に大きな卵を生みました。
王は、人が卵を生むというのは不吉であり、捨てるように命じました。
王妃は卵を絹に包んで宝物と一緒に櫃に入れて海に流しました。
やがて箱は金官国に流れ着きましたが、その国の人は怪しんで箱を取り上げようとしません。
箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に流れ着きました。
老婆が箱をが開けると、一人の少年が出てきました。
このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったといいます。
ここでは新羅が紀元前に存在したという議論はしません。
倭国の東北一千里の多婆那国で生まれたということは、今の丹後地方である丹波か、少なくとも日本海側沿岸ではないかといわれています。
つまり、 多婆那国 、丹波の国で生まれた脱解は倭人、日本人だということです。
さらに、赫居世と瓠公です。
新羅創始王の朴赫居世はBC54年に建国します。
脱解が王位につくと、瓠公を大輔に任命します。
『三国遺事』によれば、瓠公は、生まれ出た卵が瓠の様だったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたといいます。
そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と称された倭人と同定する、またはその同族とする説があります。
瓠公も倭人でした。
つまり、脱解も瓠公も倭人でした。
『三国志』魏書韓伝によると、
三世紀中頃の半島南部において、韓人がメインの辰韓と、倭人がメインの弁韓とが雑居していたことが書かれています。
“弁辰與辰韓雑居 亦有城郭 衣服居處與辰韓同 言語法俗相似 祠祭鬼神有異 施竈皆在戸西”
弁辰は辰韓と雑居し、城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗も似ている。鬼神を祭ることに違いがあり、かまどは家の西側に作る。
「新羅の祖先は倭人」という史実があってはならない理由
“新羅の祖は倭人” そんなことは彼の国の歴史界ではあってはならないことです(笑)
「臭いものには蓋」なのかは知りませんが、韓国・北朝鮮の歴史界隈では否定されています。
自国に都合の悪いことが書いてある自国の正史である『三国史記』そのものが、存在を否定されているのが現状です。
最近、檀君神話というものを持ち出して、朝鮮の歴史を語りだしているのは、これらが背景にあるためです。
古くから「韓人が朝鮮半島に定住していた」という幻想に、史実を改ざんしたいという思いが檀君神話です。
韓人が朝鮮半島の祖であるべきという思いをもって、歴史を作るのが彼の国の常識です。
島国の日本列島とは違い、韓国・北朝鮮が存在する半島は、大陸と地続きであるためどうしても異民族の侵略を受けやすい土地でした。
古くから現代にいたるまで大国の干渉地帯という位置づけは変わりません。
独立国家が継続した歴史はありません。
ましてや、海が拡大して陸地が減少し半島に変化したのは1万数千年前と新しく、人の住まない未開の地が長く続き、そのため、異端者や亡命者、逃亡者などの吹き溜まりとして半島の民族が形成されたのです。
北からは北方民族である鮮卑、濊族や中国からの侵略、南からは倭人、南方人の侵略を受け、混乱の地として歴史を歩んできたのが朝鮮半島というものです。
このように半島誕生の経緯が悲劇的でアイデンティティがあいまいであったため、どうしても自分たちの歴史を誇張する必要があったことは仕方がないことかもしれません。
しかし、史実は史実、同情はしますが、史実の改ざんに同意することはできません。
そういう国々だということを前提に、毅然として対処するしかありません。
事実は事実として主張していかないと、道理が引っ込められます。
残念ですが、現代日本の歴史学会はこれら大陸系の歴史観念に押されて、日本の歴史まで改ざんするに至っています。
百済・新羅・高句麗の元
中国の正史『隋書』倭国伝に、こう書かれています。
“新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來”
新羅と百済は、皆倭を以って大国にして、珍物多しと為し、並びに之を敬仰して、常に使者を通じて往来している。
とあります。
中国から見ても、倭は新羅や百済より大国だったという認識でした。
教科書やマスコミは、珍宝が朝鮮半島からもたらされた、と言いますが、実態は日本の珍宝が朝鮮半島に渡ることが多かったのです。
そして、中国から先進文化が到来しますが、その経由地が朝鮮半島であったということです。
朝鮮文化が日本に到来したということではありません。
すべての流れを逆に伝えているのがマスコミであり教科書なのです。
『三国志』魏書韓伝によると、
三世紀中頃の半島南部において、韓人がメインの辰韓と、倭人がメインの弁韓とが雑居していたことが書かれています。
弁辰は辰韓と雑居しているともあります。
“弁辰與辰韓雑居 亦有城郭 衣服居處與辰韓同 言語法俗相似 祠祭鬼神有異 施竈皆在戸西”
弁辰は辰韓と雑居し、城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗も似ている。鬼神を祭ることに違いがあり、かまどは家の西側に作る。
伽倻・任那日本府
こちらも日本の教科書から抹殺されている任那日本府です。
確かに、「日本」という語彙が生まれるのは後のことですので、日本府というのは正確ではありません。
朝鮮半島南部は倭人が定住する地域だったことは、これまで述べてきました。
中国の史書にも半島南部は倭人の地だと明確に記載されています。
魏書韓伝に任那のことが書かれています。
魏の時代は、220年~265年頃にあたります。
“其瀆盧国與倭接界 十二國亦有王 其人形皆大 衣服絜清長髪 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻”
「弁辰の瀆盧国は倭と境界を接している。十二国には王がいる。それらの人はみな大柄である。衣服は清潔で長髪である。また廣幅の細かい布を作る。法俗は非常に厳しい」
“始有六國稍分為十二國 弁辰亦十二國 ”
「辰韓は始めは六国あり、徐々に分かれて十二国になった。弁辰もまた十二国である」
弁辰彌離彌凍國 弁辰接塗國 弁辰古資彌弥凍國 弁辰古淳是國 弁辰半路國 弁楽(辰?)奴國 弁辰彌烏邪馬國 弁辰甘路國 弁辰狗邪國 弁辰走漕馬國 弁辰安邪國 弁辰瀆盧國
魏志韓伝から引用
ここでは書きませんが、『日本書紀』には、任那の記述が多数出てきます。
垂仁天皇の記事にも任那について書いています。
神功皇后の三韓征伐、大伴金村の任那四県の割譲、任那日本府の滅亡などの記事が明らかに存在します。
好太王碑文(広開土王碑)
391年~404年頃のことが書かれた、高句麗の好太王(広開土王)の業績を称えた、現在の中国吉林省通化市集安市にある石碑です。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説などもある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。“來背息追至任那加羅從拔城城即歸服”
好太王碑文Wikipediaより引用
倭軍の背後から官軍は急追撃して、任那加羅の従抜城に至った。城はたちまちにして陥落した。
任那と加羅を別けて書いています。
任那と加羅は別の意味を持つ単語であることがわかります。
加羅にある任那なのか、加羅に任那という一地域があったのかということでしょう。
韓国南部の前方後円墳
- 月桂洞古墳(全羅南道光州市光山区月桂洞)
- 明花洞古墳(全羅南道光州市光山区明花洞)
- 潭陽古城里(月城)古墳(全羅南道潭陽郡古城里)
- 声月里(月田)古墳(全羅南道潭陽郡声月里)
- 伏岩里古墳(全羅南道羅州市多侍面伏岩里)
- 大安里古墳群(全羅南道羅州市潘南面大安里)
- 霊岩チャラボン古墳(全羅南道霊岩郡始終面泰潤里)
- 海南龍頭里古墳(全羅南道海南郡三山面三山里)
- 馬山里杓山古墳(全羅南道海南郡山面月松里)
- 咸平長年里長鼓山古墳(全羅南道咸平郡孫仏面竹岩里)
- 礼徳里新徳古墳(全羅南道咸平郡月也面禮徳里)
- 月桂(月渓)古墳(全羅南道咸平郡霊光邑月渓)
- 高敞七岩里古墳(全羅北道高敞郡七岩里)
- 松鶴洞古墳(慶尚南道固城郡固城邑)
現在、韓国南西部において、14箇所にのぼる前方後円墳の存在が確認されています。
これらは、5世紀後半から6世紀中期に集中して作られています。
倭国のものであることは間違いないのですが、全羅南道に集中しているのは一体なぜなのか、解明が待たれます。
韓国南西以外の地、南東部から見つかっていないのはなぜなのでしょうか。
魏志倭人伝で対馬に渡る直前の場所、今の釜山あたりですね。
丁度、任那が衰退する500年頃から滅亡する562年にかけて、南西部で前方後円墳が作られています。
任那日本府は、ヤマト王権の直轄領だった可能性があります。
江戸時代の徳川幕府の天領のようなものだったのではないでしょうか。
直轄領であれば、ヤマト王権の支配が及んでおり、他の豪族の支配地ではないため、わざわざ古墳を作る必要がなくなります。
そのため、前方後円墳を作ることはないでしょう。
これらの前方後円墳は、任那日本府と別種の倭人が支配していたと考えるのが普通のような気がします。
今後の解明を待ちたいです。