磐井の乱
磐井の乱とは:わかりやすく解説
磐井の乱とは、『日本書紀』巻第十七・継体天皇紀 にわかりやすく書かれています。
任那という日本直轄領が新羅に侵略されたため、継体天皇は近江の毛野臣を派遣し新羅から取り戻そうとしました。
新羅は九州の有力豪族である磐井氏に賄賂を渡して味方に引き込みました。
磐井に対し、ヤマト王権の軍隊である近江毛野臣軍を妨害するように頼んだのです。
磐井はそれに応え、九州北部の主要地域を制圧、近江毛野臣軍を朝鮮半島へ行かせないように遮りました。
それを聞いた継体天皇は、適任者として推挙された物部麁鹿火軍を筑紫に派遣し、三井郡で交戦し磐井を打ち破りました。
磐井の子である筑紫君葛子は、磐井の罪に連座して誅されるのを恐れて、糟屋の屯倉を献上して、死罪を免れました。
継体天皇21年6月3日、近江の毛野臣が、兵6万を率いて任那に行き、新羅に奪われた地域を任那に再統合しようとしました。
この時に、筑紫国造磐井が反逆を企てようとしていました。
これを知った新羅が磐井に賄賂を贈り、毛野臣の軍を妨害しようと企てました。
磐井は、肥前・肥後・豊前・豊後などを抑え、海路を遮断し、高麗・百済・新羅・任那などの国が、貢物を運ぶ船を奪い、任那に派遣された毛野臣の軍を遮り、交戦して従いませんでした。天皇は大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人らに、詔をして、「筑紫の磐井が反乱して、西の国をわがものとしている。誰か将軍の適任者はいるのか」と言われました。
そして、物部麁鹿火が推挙されました。
天皇は将軍の印綬を麁鹿火に授けて、「長門より東は自分が治めよう。筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行え」と言われました。22年11月11日、麁鹿火は磐井と筑紫の三井郡で交戦し、反乱を鎮圧しました。
『日本書紀』宇治谷孟より引用(一部加工)
12月、筑紫君葛子は、父磐井の罪に連座して誅されるのを恐れて、糟屋の屯倉を献上して、死罪を免れようとしました。
ここまでが磐井の乱に関わる『日本書紀』の記事です。
この後に、百済・新羅・任那とのいざこざの記事が続きます。
『古事記』にも、磐井の乱を述べた記事があります。
こちらは簡潔です。
継体天皇の御世において、竺紫君石井が天皇の命令に背き、無礼なことが多々ありました。
現代語『古事記』竹田恒泰より引用
そこで、物部荒甲之大連と大伴金村之連の二人を派遣し、石井を殺させました。
岩戸山古墳
『筑後国風土記』逸文に磐井の墓が記載されています。
『筑後国風土記』では、高さ21mの石像と人形が配置されているとなっています。
長い間特定できていませんでしたが、江戸時代中頃より論争があり、現在は岩戸山古墳(福岡県八女市吉田)が磐井君の墓であると比定されています。
岩戸山古墳の石像は、この地域特有のもので、凝灰岩で造らた石像は頑丈な性質をもち、長い期間権威を示すことができる筑紫君磐井を象徴する文化を築きました。
岩戸山古墳から3km離れた所に磐井の祖父と考えられている古墳があります。
石人山古墳です。
甲冑を纏った石人像があります。武装石人に守られた家形石棺が残っています。
九州北部で巨大勢力となった磐井は磐井の乱で衰退したと思われていました。
しかし、それを覆す石像が2005年に発見されました。
鶴見山古墳です。
鶴見山古墳から武装石人の像が出土しています。
磐井の乱に敗れた後の6世紀中頃の築造とみられています。
敗れた筑紫君一族は、石像文化を受け継いだということがわかります。
有明海に面し現在6万5千人の人口を有する八女市は、丘陵地を利用した茶葉の産地です。
筑紫君磐井は、筑後平野がもたらす繁栄とともに、首長地域や集団を統率しました。
磐井の乱の謎
小田富士雄著『古代を考える 磐井の乱』によると、戦後の歴史学界隈において、磐井の乱は、屯倉制度を使ったヤマト政権の支配方式を全国に波及させ、地方豪族をヤマト政権の支配下に組み入れる強権発動に対する反乱であったという説が主流となりました。
それの応用版として、日本列島の古代国家形成が6世紀以降であるとみなし、磐井の乱は古代国家形成のための国土統一戦争であったという見方が支持されました。
その後、1978年の稲荷山古墳から鉄剣銘が発見され、国家形成のための統一戦争という説から、変化が見られました。
5世紀後半の雄略天皇の時代には、関東から九州にいたるヤマト政権の支配体制は一応できあがっていたという説が主流になりました。
雄略天皇後はその体制に乱れが生じ、継体天皇が皇位を継承したので、筑紫君磐井との直接の主従関係が成立していなかったと見られるようになりました。
『古事記』では竺紫君石井であり”国造”ではなく、その子の葛子以後に国造に任じられたのを、『日本書紀』では磐井にさかのぼってヤマト政権に対する従属度を強調したのであろうと考えられる、としています。
磐井の乱と九州王朝説
戦後に流行した説として九州王朝説があります。
古田武彦氏が主張して有名になりました。
いわゆる『日本書紀』や『古事記』を重視する考え方を見直して、多元的に王朝を考察しようとしました。
ヤマト政権一択ではなく、全国に様々な地域の王権が多元的に存在したのではないか、というものです。
その多元的王朝説の有力なものが古田武彦氏が主張した九州王朝説です。
九州王朝説では、倭の五王について、『日本書紀』には書かれていないのに、『日本書紀』の○○天皇が讃・珍・斎・興・武に該当するのかという考え方は違うのではないか、というのです。
倭というのは『日本書紀』に出てくる天皇家とは違う、別の王朝ではないのか、それこそ九州王朝である、という話です。
九州王朝説では、武は雄略天皇ではなくて、九州王朝の倭王ということになります。
その武王の流れが筑紫君磐井につながるといいます。
磐井の乱は、継体天皇の乱であると主張するに及びます。
九州王朝が主で、大和王権は従の関係だとも言います。
大和王権の継体天皇が、九州王朝の筑紫君磐井に反乱を起こしたのだから、磐井の乱ではなく、継体の乱ということだそうです。
確かに九州が天皇の発祥地であることは間違いないでしょう。
ただし、『日本書紀』を否定することで、いろいろと矛盾が発生することになります。
九州王朝説側でも、白村江の戦いまでを九州倭国の歴史と見るのか、壬申の乱までを九州倭国の歴史と見るのか、大化の改新までなのか等、考え方は様々であり定まっていないことが説の弱点とされています。
とはいえ、通説を覆すほどの学説が出てこないことは、九州王朝説が傍流の考え方となっているという証でしょう。