保元の乱と武士の台頭 Hogen War & Rising of Bushi
保元の乱は保元元年(1156年)7月、皇位継承問題や摂関家の内輪もめにより、後白河天皇側と崇徳上皇側の対立が激化し、衝突した内乱です。
続く平治の乱と合わせて、保元・平治の乱ともいわれます。
保元の乱では、武士が活躍し、武士の中央政府への進出の契機となった、といわれています。
平清盛をトップとする平氏一族が中央政府に進出し、続く1159年の平治の乱により、源氏の勢力を一掃し、平氏が中央・地方の軍事権を掌握しました。
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「保元の乱」勃発の背景
白河天皇と摂関政治の終焉・院政の始まり
後三条天皇が登場し、藤原摂関政治は終焉を迎え、「院政」という政治体制へと移行していきます。
院政とは、天皇が皇位を後継者に譲位して太上天皇(上皇)となり、政務を天皇に代わって直接行う形態の政治です。
後三条天皇が譲位し上皇になったとき、院政を敷いたかどうかは諸説あり、確定していません。
後三条天皇が譲位したため天皇に即位したのが白河天皇です。
延久四年(1072年)、白河天皇20歳の時でした。
白河天皇は、天喜元年(1053年)、後三条天皇(尊仁親王)と母・茂子の間に第一皇子として生まれ、大治四年(1129年)に崩御されます。
白河天皇が即位した頃、関白・藤原頼通、藤原彰子、藤原教通などの藤原摂関政治の関係者が相次いで亡くなります。
藤原氏の圧力を受けずに政治を動かすことができるようになります。
白河天皇は、当事8歳の義仁親王を天皇に即位させます。堀河天皇です。
堀河天皇は、承暦三年(1079年)、白河天皇と母・賢子の間に第二皇子として生まれ、嘉承二年(1107年)に崩御されます。
即位に伴い、義理の外祖父にあたる関白・藤原師実が摂政となり実権を握ったため、一時的に藤原摂関政治が回復します。
しかし、堀河天皇の母・賢子は源顕房の娘を養女にしたもので、師実が外戚としての権威を独占するには至りませんでした。
息子の師通が急死すると、その息子の藤原忠実はまだ幼く堀河天皇の補佐は困難で、天皇は白河上皇に政務を相談せざるを得ませんでした。
かつて師実とは協力的であったことから白河上皇は摂関家にも強い影響力を持ち続け、結果として白河法皇の院政へと移行したのです。
もちろん、後三条天皇の荘園整理令などの政策により、この頃には藤原摂関家の財力が弱体化していたことも影響しています。
藤原氏の衰退と呼応するかのように、源氏が公卿の主な地位をほぼ独占するまでになります。
左大臣・源俊房、(右大臣は藤原忠実)、内大臣・源雅実、大納言・源師忠/源俊明、などです。
堀河天皇は、生まれつき病弱で、天皇在位のまま29歳で崩御されました。
この時、宗仁親王(鳥羽天皇)は若干5歳で即位、実際の政務は白河法皇が執り行わざるを得ませんでした。
鳥羽天皇は、康和五年(1103年)、堀河天皇と母・藤原苡子の御子として生まれ、 保元元年(1156年)に崩御されます。
永久の変で輔仁親王を失脚させることで権力を掌握した白河法皇は、受領、院近臣といわれる側近や乳母方を重用し、ワンマン政治を行います。
白河法皇は、三代の天皇の「治天の君」として君臨します。
特に叙位・除目に大きく介入し、人事異動についてルールを守らず愛憎意にまかせて行いました。
貴族社会は院政による専制政治のため、内部崩壊が進んでいきます。
白河上皇と北面の武士
白河上皇は権力を維持する手段として「北面の武士」を組織します。
「北面の武士」とは、院庁の北面に親衛隊である近衛として詰め、上皇の身辺を警衛した武士のことです。
白河法皇が創設し、その後の上皇軍の先駆けとして意味を持つものです。
その身分によって、上北面と下北面に分かれました。
北面の武士の起源は、平為俊、藤原盛重など白河上皇に目をかけられた腹心でした。
さらに、清和源氏重時、文徳源氏泰季などの武士がいます。
鳥羽上皇の北面の武士に、足利氏の祖先といわれる源義康がいました。
義康は源義家の孫にあたり足利荘を本拠としていました。
僧兵の強訴
白河上皇が武士を重用した理由のひとつに、僧兵の強訴を防ぐ狙いがありました。
貴族からの寄進で所領を増やし、お布施も多く集まり、安定した生活がおくれる寺院には大勢の僧侶が存在していました。
9世紀頃から寺院に対する国家統制が緩み、僧侶の質が悪化、内部抗争も勃発するなど、寺院の衆徒は僧兵へと劣化していきました。
永久元年(1113年)、永久の強訴といわれる事件が起きます。
清水寺の別当人事で本寺である興福寺と揉め事を起こし、興福寺の衆徒が入洛します。
お寺の衆徒なので、静かに訴えかけたかというとまったくそうではなく、材木を掠奪するなど乱暴狼藉を働き、その振る舞いは盗賊のようだったといいます。
さらに、今度は延暦寺が興福寺の僧の流罪を要求して、強訴を朝廷に迫りました。
興福寺は他の南都七寺にも呼びかけて僧兵を結集、対立する延暦寺もそれに対抗しようとしていました。
このように興福寺、延暦寺のような大規模寺院は貴族と同等かそれ以上の僧兵と言う名の兵力を有していました。
これも武士の先駆けといっていいでしょう。
貴族も寺院も、武士の力無しに治安を維持することが出来なくなっていきました。
鳥羽上皇と白河法皇
永久五年(1117年)、藤原公実の娘で白河法皇の養女の藤原璋子(待賢門院)が鳥羽天皇の中宮として入内、元永二年(1119年)、顕仁親王が生まれます。
保安四年(1123年)に皇太子となり、鳥羽天皇が譲位され践祚、5歳で崇徳天皇として即位しました。
一般に崇徳天皇は「叔父子」と呼ばれており、白河法皇のご落胤といわれます。
白河法皇の存命中、鳥羽上皇は逆らうことができず、白河法皇のワンマン体制が継続されました。
そしてついに白河法皇が崩御、ワンマン体制が終息します。
大治四年(1129年)より鳥羽上皇は院政を敷きます。
白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実を呼び戻し、白河法皇の遺言に逆らって娘の泰子を入内させました。
また、白河法皇の側近であった藤原長実・家保兄弟、藤原顕盛らを排除します。
さらに、藤原長実の娘・得子(美福門院)が入内し、待賢門院との不仲が決定的となりました。
忠実は長男忠通よりも次男頼長を寵愛し鳥羽上皇も頼長を重用します。
このように摂関家に内紛が起きるようになります。
この内紛に乗じて力をつけたのが、藤原南家貞嗣流で藤原実兼の子、信西・藤原通憲です。
得子は躰仁親王を生み、永治元年(1141年)わずか3歳で近衛天皇として即位されます。
躰仁親王は崇徳上皇の中宮・藤原聖子の養子であり皇太子のはずでしたが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていたのです。
天皇が弟の場合は将来院政を行うことはできず、崇徳上皇はまんまとはめられたのでした。
崇徳上皇は鳥羽上皇にだまされた形で近衛天皇に譲位することになりました。
これは保元の乱の原因の一端となったといわれています。
近衛天皇は、皇子を儲けること無く17歳という若さで崩御されます。
久寿二年(1155年)鳥羽上皇は雅仁親王を天皇に即位させます。後の後白河天皇です。
後白河天皇は、大治二年(1127年)鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれました。
保元元年(1156年)、崇徳、近衛、後白河の三代にわたり院政を行った鳥羽上皇が崩御されます。
保元の乱 勃発
鳥羽上皇危篤の知らせに崇徳上皇は御殿に駆けつけますが、鳥羽上皇側近臣の藤原惟方に阻まれて退去、葬儀にも参列できませんでした。
鳥羽上皇がクーデターを警戒して準備させていた源義朝、義康、光保ら源平兵士を召集し、内裏と鳥羽御殿を警護させます。
保元元年(1156年)7月5日、後白河天皇が検非違使平基盛、源義康らに命じ、京都の武士の動きを禁止します。
翌日には基盛が源親治を逮捕、8日には邸内を諜報しているとして義朝に命じて摂関家の本宅である東三条殿を接収します。
その際、祈祷していた平等院の供僧・勝尊を尋問したところ、頼長の命で呪詛していたことが判明、クーデターの証拠が見つかりました。
9日、崇徳上皇は密かに鳥羽殿の田中御所を抜け出し白河前斎院御所に移ります。
白河殿には、平家弘、その兄弟、平時盛、長盛兄弟、源為国らの側近が集まりました。
その他、源為義が頼賢、為朝ら子息を率いて参上します。
翌日には頼長が平忠正、源頼憲の家人武士を連れて白河殿に入りました。
一方の後白河天皇側の高松殿は、警備していた源義朝、源義康、平清盛、源頼政、源重成、源季実らが続々と召集され、「雲霞の如く」『兵範記』と軍勢が満ち溢れました。
後白河天皇の御前で、関白・忠通、信西、清盛、義朝による作戦会議が開かれました。
信西・義朝が先制攻撃を強硬に主張したのに対して、忠通は逡巡していましたが押し切られ、翌日攻撃命令が出されました。
保元の乱を仕掛けたのは信西だったというのが有力な言説です。
鳥羽法皇の葬儀を仕切ったり、保元の乱では敵対する崇徳上皇・藤原頼長を挙兵に追い込み、源義朝の夜襲の献策を採用して後白河天皇側に勝利をもたらしたといわれています。
清盛軍は、二条大路から三百騎、義朝は、大炊御門大路から二百騎、義康軍は、近衛大路から百騎で白河殿を攻撃します。
午前8時頃には、白河殿から火の手が上がり、崇徳上皇、頼長、為義などは逃走しました。
頼長の敗北を知った忠実も、宇治から奈良へ逃亡しました。
13日、崇徳上皇は仁和寺に逃げていましたが天皇方に投降、頼長は合戦で首に重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって奈良まで逃げ延びますが、父・忠実に対面を拒絶されたため、やむを得ず母方の叔父である千覚律師の房に入り、14日に37歳で死去しました。
23日、崇徳上皇は讃岐に流され、8年後に崩御されました。