藤原道長

藤原道長は、藤原北家嫡流、兼家と時姫の息子です。
藤原道長は、藤原摂関政治の栄華を極めた人であり、有名な和歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の作者です。
実は藤原道長には同姓同名でもうひとりいて、その藤原道長は平安時代初期の人で南家の人です。

藤原道長の父親である藤原兼家にとってライバルを蹴落とす最善策は、花山天皇の退位でした。
花山天皇から懐仁親王への譲位がベストでした。
天皇の寵愛深かった藤原為光の娘で花山天皇の女御、忯子が懐妊するのですがその後亡くなり、花山天皇は深く悲しみに沈みます。
その悲しみに乗じ出家計画を建てたのが藤原兼家一家でした。
まず、道兼と僧・厳久が言葉巧みに出家を勧め、清涼殿から天皇を連れ出すことに成功します。
清涼殿を出た後、道隆と道綱は三種の神器を懐仁親王の居る凝花舎に移してしまいます。
道兼は僧形になる前に親の兼家にこの姿を見せたいという理由で寺を抜け出し、そのまま逃げて出家はせず、ここで天皇はペテンにかけられたことを知ります。
天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこでこの兼家一家の策略を知り、出家しました。
このように、兼家は言葉巧みに花山天皇を出家に誘導、ついに寛和二年(986年)花山天皇は退位し外孫の懐仁親王(一条天皇)が即位しました。

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藤原道長の出自

藤原道長は、兼家の四男として康保二年(966年)に生まれました。
同母の兄として道隆、道兼、姉として超子(三条天皇の母)、詮子(一条天皇の母)、異母兄として道綱がいます。

父親・兼家の不遇時代が長く実権を握った頃には、兄たちの年齢が昇進の時期を逃し、それが四男であった道長の昇進に有利に働きました。

長徳元年(995年)、はしかと思われる疫病が流行り、道隆、道兼の兄弟が死亡します。
関白道隆の病は、はしかではないといわれています。
この時、道長と道隆の息子、伊周が関白候補でした。
そこに意見を述べたのが道長の姉で天皇の生母であった詮子でした。
これが功を奏して藤原道長が右大臣に昇進しました。

その後、花山天皇と伊周との間で恋の揉め事があり、花山天皇に弓引く事件が発生します。(長徳の変)
さらに伊周が病の詮子を呪詛したという噂が立ちます。
また、法琳寺から伊周が大元帥法という秘法をおこなったという密告がありました。
これらの事件により、道長は、伊周を大宰権帥に左遷すると発表、固関使派遣が決まります。
中宮・定子は、伊周、隆家を左遷の命が出た後も二条宮でかくまい髪を切って尼となりますが、後に一条天皇の命で宮中に戻ります。
一連の騒動で藤原伊周、隆家は失脚し、藤原道長の天下がやってきたのでした。
政敵の伊周は結局、太宰府に左遷されますが、短期間で京都に戻ってきています。
この辺りが、菅原道真の左遷や安和の変とは趣が違うところで、穏便に事が運ばれたことがわかります。
これだけを見ても、他の為政者と比較して、藤原道長は優れた藤氏長者であり、興隆をもたらしたのも理解できるのです。

藤原道長の系図

藤原道長の系図を下記に載せました。
この系図を見ると、道長が外戚として天皇を支配下に治めようとしたことがわかります。
宿敵が居なくなり、まさにやりたい放題です。
道長は、永延元年(987年)、源雅信の長女であった源倫子と結婚します。
二歳年上の女房で、倫子の母・穆子の推薦もありました。
そして988年、長女の彰子が生まれます。
この年に、道長は源高明の娘、源明子と結婚します。
どちらの結婚も同格でしたので正妻と妾という優劣はつけられません。

長徳二年(996年)7月、藤原道長は右大臣から正二位左大臣に昇進しました。
ただ、栄華を謳歌していたかといえばそうではなく、道長は病魔に襲われます。
それも「もののけ」のしわざということで片付けられ、なんとか命をとりとめます。
長徳五年(999年)盛大に彰子の一条天皇への入内が執り行われました。
一条天皇20歳、彰子12歳での結婚でした。
彰子は容姿も麗しく知性も持った才色兼備の持ち主でした。
それとは正反対に不遇の身となったのは伊周の妹・定子でした。
定子は、一条天皇の中宮にもかかわらず左遷された伊周の兄弟ということで、冷遇されました。
一方の彰子は、道長の力により女御から中宮に昇格します。
中宮が二人いるという一帝二后は異例のことで、道長の強引な策略なくして成り立たないものでした。
そして、寛弘五年(1008年)、敦成親王(後一条天皇)が誕生します。
翌年、敦良親王(後朱雀天皇)も誕生、道長にとっては念願の外戚となったのでした。
彰子は、長和元年(1012年)皇太后に、寛仁二年(1018年)に太皇太后となりました。
この間、長和五年(1016年)には敦成親王が即位し、後一条天皇となり、道長は念願の摂政に就任しました。

藤原道長の系図
藤原道長の系図

藤原道長「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

藤原道長は、一年ほどで摂政の地位を長男の頼通に移譲します。
これで藤原一家の栄華が続くことになりました。
しかし、一点障壁がありました。
それは道長と三条天皇との確執です。
三条天皇は36歳で即位したためか、自分の意向を強く押し出そうとしていました。
しかし、すでに彰子の生んだ敦成親王が皇太子に立っていたので、道長と板挟みになっていたのです。
そして、長和五年(1016年)東宮に三条天皇の第一子・敦明親王を立て、三条天皇は後一条天皇に譲位します。
わずか1年後、寛仁元年(1017年)、三条天皇が崩御されます。42歳でした。
これを待ってたかのように事件が起きます。
東宮敦明親王の廃立事件が起きます。
道長にとって外戚でもない敦明親王は不要の存在でしたから、東宮廃立は巧妙に仕掛けた事件でした。
結局、敦明親王が廃退し、敦成親王が東宮に就任します。後の後朱雀天皇です。
時の最高権力者である藤原道長に逆らえるものは居なかったのです。
敦明親王の父親で左大臣の藤原顕光も、治安元年(1021年)に失意のうちに病死しています。
その後、顕光父娘は怨霊になって道長一家に祟ったとされ、顕光は民衆から「悪霊左府」と呼ばれて恐れられたそうです。

そして最終段階として、寛仁二年(1018年)、後一条天皇が元服し、威子が入内・その後立后します。
後一条天皇11歳、威子20歳ですからかなり年上の女房でした。
これで一連の外戚関係構築が完成を見るのでした。

中宮職の職員任命が終わり、公卿以下が土御門邸の威子の下に集まり祝宴が行われました。
酔が増すなか、管弦楽が始まり、上機嫌の道長が大納言実資を呼び寄せて、
「歌を詠もうと思うが、貴殿にも一つ詠んでいただきたい」と言いました。
自讃の歌で、予め準備していた歌ではなく、即興作であるとことわって、次の詩を詠み上げます。

此の世をば我世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば

実資は歌に関して自信がなかったのか、「いまの御作は優美でこれにふさわしい返歌は作れない」と返答したそうです。
諸侯も実資の返事に賛同し、道長も返歌を求めること無く、何度か望月の歌が詠まれたといいます。
このエピソードは『小右記』に記されています。
古今和歌集などの和歌集に選定されていないところをみると、和歌としてはそれほど優秀とはいえなかったのでしょう。
つまり、藤原道長一族の栄華を象徴するものとして望月の歌が使われ、有名になっていったのだと推定されます。

藤原道長がこのような歌を詠んだのは、一連の外戚関係構築が完成した直後であることが重要な意味を持ちます。
要するに、左大臣・摂政・太政大臣という官職に就くことではなく、彰子や威子などが立后し外戚関係が強固になったたときが最も喜んだということです。
これが、藤原氏の藤氏長者として最大級の栄誉であったことを表しているのです。



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