役小角と修験道の正体と謎

山伏:Wikipediaより引用

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修験者と修験道

奈良時代には、山に入り自然の霊力を身につけようとする修行者たちが現れました。

彼らは聖、禅師、優婆塞などの半僧半俗の人々で、兜巾を身に着け、篠懸・結い袈裟を掛け、笈を負い、念珠や法螺を持ち、脛巾をつけ、錫杖や金剛杖を突いて山野を駆け巡ります 正式な許可を得ていない私度僧も含まれていました。

彼らは山中で神霊と交流する巫者(ふしゃ)でもありました。

役行者はその一人で、古密教と神仙思想の影響を受け、葛城山で孔雀明王の呪法を修し、鬼神を使役して一言主神を呪縛したと伝えられています。

鎌倉時代には、彼は修験道の開祖として崇められました。

『続日本紀』に出てくる役小角

役行者が歴史に登場するのは流罪に処されるという衝撃的な事件によるものでした。

『続日本紀』の文武天皇3年(699年)5月24日の記述には、次のようにあります。

「役の行者小角を伊豆嶋に配流した」

小角は最初、葛城山に住み、呪術に優れていることで有名でした。

外従五位下・韓国連広足の師匠でもありました。

しかし、後に小角の能力が悪用され、人々を惑わすものであると讒言され、遠流の罪に処されました。

世間の噂では、「小角は鬼神を自在に使役し、水汲みや薪取りをさせ、命令に従わないと呪術で縛り動けなくした」と言われています。

姓は「役」、名は「小角」であり、役氏は「賀茂氏」の一族であるため、フルネームは「賀茂役小角」となります。

役小角が正史に登場するのは、この一度限りでした。

役小角は土蜘蛛の子孫か?

役小角は土蜘蛛の子孫と考えられています。

神武天皇をヤマトへ導いた八咫烏も土蜘蛛の一族とされるため、八咫烏は神武天皇に仕えた可能性があります。

八咫烏は賀茂建角身命のことであり、賀茂氏の祖先とされていることから、役小角の先祖にあたると考えられます。

葛城山と土蜘蛛

葛城という地名の由来は、『日本書紀』の神武天皇即位前紀に記されています。

日本書紀は、土蜘蛛の人々について「身は短く、手足は長し。侏儒に類する」と記述しています。

神武軍は葛で作った網でこれらの人々を捕らえ、命を奪いました。

そのため、「その村を葛城と名付けた」と記されています。

葛城山には、土蜘蛛を埋めたとされる「蜘蛛塚」が現在も残っており、一言主神神社の境内で見ることができます。

また、金剛山の中腹には、土蜘蛛が住んでいたと伝わる「蜘蛛窟」が存在し、高天彦神社(御所市高天)の近くに位置しています。

役小角の呪術は広く知られていたと考えられます。

そして、彼の弟子であった広足は、後に天皇の医療と薬の処方を担当する典薬寮の長官に任命されています。

吉祥草寺

平安時代に書かれた仏教説話集『日本国現報善悪霊異記』(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)いわゆる『日本霊異記』において、奈良薬師寺の僧・景戒が詳しく記しています。

景戒は、役小角が賀茂氏の出身であると記述し、その出身地を大和国葛木上郡茅原村としています。

吉祥草寺の境内には、役小角が産湯に使ったとされる井戸があり、そこから金剛・葛城の山並みを仰ぎ見ることができます。

仏教の三宝を信奉し、夜になると雲に乗って大空を飛び回ったとされています。

さらに、鬼神に命じて大和国の金峯山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役の優婆塞の謀反を讒言しました。

朝廷は役小角を捕らえようとしましたが、その験力にはかなわず、うまくいきませんでした。

そこで役小角の母を捕らえると、彼は母を救うため、ようやく囚われの身となりました。

こうして伊豆大島に流された役小角でしたが、その後の著述に彼の特徴が表れています。

役小角は空を飛び、昼は伊豆にいましたが、夜になると抜け出して富士山で修行をしていました。

こうして3年の月日が流れ、大宝元年(701年)正月に、ついに仙人となって昇天したといいます。

その後、飛鳥元興寺の僧・道昭が唐に留学し新羅に赴いた際、偶然にも「日本語」を話す人物と出会いました。

名前を尋ねると、その人物は役優婆塞であると答えますが、そのまま姿を消したのです。

前鬼・後鬼

前鬼と後鬼は、大阪府と奈良県の境に位置する生駒山に棲んでいた夫婦の鬼とされています。

夫の名は赤眼、妻の名は黄口で、五人の子供もいたといいます。

彼らは人々に害を与えていたため、役小角が呪力で彼らを縛り、不動明王の四句の偈(げ)(仏の功徳をほめたたえる詩)を授けて従者にしました。

前鬼と後鬼については、山の神の化身が伝説化したものとの説や、山の民や山伏そのものではないかという説もあります。

一言主神

『日本書紀』雄略天皇4年の春2月の条に、次のような話が記されています。

雄略天皇が葛城山に狩りに出かけた際、一行の前に天皇にそっくりな人物が現れました。

天皇が「何処の公か」と尋ねると、その人物は現人神であることを告げ、まずそちらから名乗るよう要求しました。

そこで雄略天皇が名乗ると、その神は一言主神であると答えました。

その後、二人は一緒に狩りを楽しみ、馬の轡を並べて進みました。

やがて日が暮れてきたので狩りをやめ、神は雄略天皇を畝傍山の西まで送っていきました。

これを見た人々は、「なんと徳の高い天皇なのだ」と賞賛しました。

葛城の神が送り届けるほど、雄略天皇は素晴らしい人物であったということです。

『延喜式』によると、土佐国土佐郡には都佐坐神社があり、『続日本紀』はこの神社が高賀茂大社にあたるとしています。

土佐にはもう一つ賀茂神社があることから、通常は関係がないと思われる葛城と土佐の間に関連性を見出すことができます。

一言主神である高賀茂神も流されたと伝えられています。

葛城政権の衰退

葛城政権は神武天皇から開化天皇まで続き、その後皇統は崇神天皇の三輪政権に移りました。

崇神天皇以降、クーデターが頻発し、その首謀者は葛城政権に関連する人物が多かったとされています。

葛城系の勢力はクーデターのたびに削がれ、最終的には乙巳の変でその勢力が壊滅しました。

乙巳の変では、中大兄皇子らによって蘇我入鹿が暗殺され、葛城系一族は衰退しました。

蘇我氏は葛城を出自とし、天智天皇の近江朝廷と大海人皇子が戦った壬申の乱では、葛城系の豪族が大海人皇子軍に加勢しました。

役小角もこの葛城の出身であり、彼が属する賀茂氏は大海人皇子軍の一員として参戦しました。

雄略天皇

日本書紀によれば、雄略天皇は日本で初めて独裁権を求めた天皇であり、その行動に対して民衆は非難の声を上げていたとされています。

当時、大和朝廷で最も権力を握っていた豪族は円大臣(つぶらのおおおみ)(葛城氏)、(別名・葛城円(かつらぎのつぶら))であり、雄略天皇に狙われた皇子たちを自身の邸宅に匿ったことで、一族は殲滅の運命に直面しました。

こうして5世紀における最大の豪族である葛城氏は衰退していきましたが、葛城を拠点とする一族の興亡と一言主神の流浪は、強い因果関係で結ばれていたはずです。

すなわち、一言主神は雄略天皇の専制政治によって、大和地方から追放されたものと推測されます。

高鴨神社

全国の賀茂、鴨、加茂神社の起源についてご紹介します。

これらの神社の祭神である味耜高彦根神の母は、宗像神の多紀理毘売命です。

そのため、賀茂氏の起源は海人にあります。

また、「耜」という字からもわかるように、味耜高彦根神は金属に関わる神でもあります。

大海人皇子と大海部氏

凡海麁鎌

凡海麁鎌(おおあまのあらかま)は、飛鳥時代の人物で、大海人皇子の養育に関わったと推定され、大宝元年(701年)に陸奥国の冶金に遣わされたと記録されています。

尾張氏は、海人であるとともに、名前に含まれる「鎌」から連想されるように、鍛冶や冶金などの金属器の製造に長けた一族であったと考えられます 尾張氏のヤマトでの本貫地は高尾張とされ、奈良県西部・葛城市の葛城山の麓に所在します。

ヤマトの尾張氏は東海地方に移って尾張国を形成しました。

葛木坐火雷神社(かつらぎにいますほのいかづち)

祭神の天香山命は天火明命の子神であり、ニギハヤヒに従って大和に入り、この周辺を高尾張として本拠地にしました。

尾張氏と葛城氏の関係が密接であることが明らかです。

神仏習合と修験道の発達

日本への仏教伝来以降、日本人には「神」と「仏」は同じものとして信仰されていました。

その素朴な神仏習合の考えは、やがて仏教の仏を本体とする本地垂迹説として理論化されるようになりました。

そして、神道の衰退とともに、修験道が発達していきました。

修験道は、真言密教、天台宗の影響を受けながら神仏習合とも強く関係しつつ、独自の発達を遂げることとなりました。

水銀・鉱山で結びつく空海と修験道

中央構造線上の吉野や高野山付近は水銀の産地で、縄文時代から朱を採掘していた記録や丹生神社が数多く残っています 空海は水銀に関する知識を持って唐から帰国したと思われます 水銀は、朱の顔料として絵画や建築物に使われ、鍍金(めっき)の材料としても利用されていました。

また、水銀が採れるところは、金も採れるということが知られていました。

つまり、金を見つけるために水銀を探していたともいえます。

空海が修行したとされる金剛山や吉野も中央構造線の付近にあり、丹生氏や水銀との関係を想起させるものです。

丹生都比売神社、丹生川上神社をはじめ、伊勢神宮、二見興玉神社なども中央構造線の付近にあります。

修験道と吉野山や金剛山の水銀・鉱山が深く結び付いていることがわかります。

山岳信仰と関連する修験道

修験道は、天狗や山伏のように山岳信仰と深く結び付いています。

富士山、筑波山、神奈川の大山、赤城山、高尾山など

さらに、全国を見ると、出羽三山、岩木山、恐山、信濃の浅間山、御嶽山、戸隠山、立山、白山、山陰の大山、開聞岳、英彦山と数多くの修験道の山が存在します。

もちろん大和地方では、葛城山、大峰山、生駒山、那智山、伊吹山などなど。

芸能、配置薬も修験道とともに発展したものです。

そして、修験道は反体制の宗教でした。

修験道は、裏社会に生きる人びとの宗教でした。

仏教とくに密教と古くからある山岳信仰を習合させ、さらに神仙思想を主とする道教も加わり、複雑に絡み合った信仰形態を形成していきました。

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