持統天皇の謎 [The mystery of Empress Jito]
持統天皇 鸕野讚良
持統天皇は、高天原広野姫天皇 第41代天皇で、幼名は鸕野讚良です。
持統天皇は、645年(大化元年)に生まれ、703年(大宝二年)に崩御されました。
天武天皇の皇后で推古天皇、斉明(皇極)天皇に続く3人目の女帝です。
天智元年(662年)、草壁皇子を大津宮(筑紫の娜大津)で生まれました。
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Empress Jito was the 41st emperor and was also called Unono Sarara.
And then, Empress Jito was born in 645 and was demise in 703.
And it is the empress of Emperor Tenmu and the third empress after Empress Suiko and Empress Kogyoku.
天武天皇崩御と世継ぎ問題
壬申の乱(672年)で勝利した天武天皇が朱鳥元年(686年)に崩御されると、皇位継承問題が起こります。
壬申の乱の記事はこちら
皇位継承問題が起こった原因は、草壁皇子が病弱で皇位継承者としての資質に問題があったことだと思われます。
問題なければそのままスムーズに草壁皇子が天皇に即位していたはずです。
天武八年(679年)天武天皇は吉野宮に行幸され、皇后(持統)および草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、芝基皇子に対し、継承の争いを起こさないよう誓わせました。
継承の争いが起きると予測していたことを裏付ける行動です。
The cause of the problem of succession to the throne is thought to be that Prince Kusakabe was ill and had problems with his qualifications as a successor to the throne.
In short, if there was no problem, Prince Kusakabe would have been the emperor as it was.
In the 8th year of Tenmu (679), Emperor Tenmu went to Yoshino-miya and did not dispute succession with the Empress (Jito), Prince Kusakabe, Prince Otsu, Prince Takechi, Prince Kawashima, Prince Osakabe, and Prince Shiki. I made you swear.
In short, it is an action that supports what we expected to be a succession dispute.
大津皇子の変
継承の争いを起こすなと誓わせられましたが、謀反を起こすことを運命づけられた悲劇の御子が大津皇子です。
大海人皇子が壬申の乱という武装蜂起を起こさざるを得なかったのと同じように、大津皇子が謀反を起こします。
つまり、謀反を起こさなければ制圧されていたでしょう。
大津皇子の謀反が発覚するのは、2つの説があります。
- 川島皇子が大津皇子の謀反を密告したから
- 密かに斎宮の大伯(大来)皇女に会いに行ったことが起因
考えるに、両方の融合で発覚したのではないでしょうか。
持統側は当然大津皇子を監視しているはずですから、大津皇子が不在という情報を得て、川島皇子を問い詰めたら自白したということではないでしょうか。
結局、大津皇子は謀反を企てたことは確かなようで、最終的には自害に追い込まれます。
高市皇子と天皇説
高市皇子は、天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘(宗形徳善の娘)を母(天武天皇の嬪)としています。
正妃は天智天皇皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)です。
母の胸形尼子娘は、地方出身の卑しい身分であったため、天皇になることは許されなかったといいます。
子に長屋王、鈴鹿王、河内女王、山形女王を儲けています。
草壁皇子が亡くなって高市皇子は太政大臣になりますが、持統天皇は高市皇子の即位を認めず、軽皇子(文武天皇)が次の天皇とされたのです。
696年、高市皇子は薨去します。(年齢は43歳説など複数あり)
高市皇子は残念ながら皇太子や天皇には即位していないとみられます。
天皇になってもおかしくない皇族だったことから、天皇説が出てきたのでしょう。
持統天皇が君臨している限り、持統の子ではないのに皇太子、天皇に就くことは無かったのです。
高市皇子の亡き後、持統が皇太子を立てることを群臣に相談します。
ここで、持統の意向を汲んだ葛野王の発言で、草壁皇子の子である軽(珂瑠)皇子が皇太子に決定します。
そして、697年、持統が譲位、軽皇子が即位して文武天皇になります。
この時、文武天皇は14歳でした。異例の若さで即位しています。
そして問題なのが軽皇子を即位させるため、法律(律令)まで変えているのです。
嫡子の得分を多くした嫡庶異分が戸令で規定されています。
藤原不比等の登場
藤原不比等は奈良時代前半に大きな影響を及ぼした人物です。
大宝律令編纂を主導するとともに、娘を聖武天皇の后とし 4 人の子らを高官にしています。
このように、不比等は、したたかな政治手法を使った謀略家と評価されます。
新しい時代を切り開いた人物として通説では描かれていますが、その勢力を保持する手法は伝統的な豪族とは全く違った部分が多いと思われます。
658年、藤原不比等は、奈良県明日香村で藤原(中臣)鎌足の次男として生まれました。(天智天皇のご落胤説あり)
不比等という名前について、当時は「史」(ふひと)でしたが、一般的には「不比等」とされています。
689年、不比等は裁判をつかさどる官人として政界デビューを果たします。
694年に持統天皇は藤原京に遷都、首都機能を備えた本格的な都でした。
『扶桑略記』には、持統天皇が藤原の私邸に宮を置いた、と書かれています。
しかし、早くも708年には元明天皇によって遷都の詔が発せられます。
藤原不比等は、持統天皇が即位すると、公に登場してきます。
乙巳の変で鎌足が登場したのと同じように、藤原不比等が突然登場するのです。
そして、天武天皇の心配を無下にするように大津皇子を謀反の罪で自害に追い込み、草壁皇子を即位させます。
不比等がこの策略に関わっているかどうかは不明です。
謀略の限りを尽くした中臣鎌足の血を引く不比等です、権謀術数を使うのは必定でしょう。
この後、700年、大宝律令が制定され不比等の名前が筆頭に登場します。
藤原不比等の独裁政治が始まります。
Fujiwara no Fuhito will appear publicly when Emperor Jito takes the throne.
Just as Kamatari appeared in Isshi Incident, Fujiwara no Fuhito suddenly appeared.
Then, Prince Otsu is forced to commit suicide on the charge of rebellion so as to eliminate the worries of Emperor Tenmu, and Prince Kusakabe is enthroned.
But, it is unclear whether Fuhito is involved in this tactic.
In short, it is incomparable to draw the blood of Kamatari, so it is inevitable to use the number of tactics.
After this, in 700 years, the Taiho Code was enacted, and names such as Fuhito appeared at the top.
From here, the dictatorship of Fujiwara no Fuhito begins.
不改常典と黒作懸佩刀
不改常典とは、天智天皇が即位時に行った「改めるまじき常の典と定め賜ひ敷き賜ひた法」という詔があり、通称で「不改常典」と呼ばれるものです。
この不改常典は、これまでの兄弟継承を廃止して、天皇の子への皇位継承を定めたルールであるというのが通説です。
「東大寺献物帳」には、不比等が草壁皇子から黒作懸佩刀を受け取ったことが記載されています。(正倉院宝物には残っていません)
黒作懸佩刀は、草壁皇子ー>藤原不比等ー>文武天皇ー>藤原不比等ー>聖武天皇と渡ります。
『日本書紀』に、天武天皇の病気を占うと草薙剣に祟りがあると出たので、熱田社に送って安置させた、とあります。
草薙剣は呪われるているので使えなくなり、新たな皇位継承の印しが必要となり、黒作懸佩刀を創出したのだと思われます。
というよりも、草薙剣を廃止し、黒作懸佩刀を皇位継承のルールとするために行った策謀とも考えられます。
また、草薙剣を保持しておらず、権力を掌握できていなかったから黒作懸佩刀を代用した、という論説もあります。