後醍醐天皇の政治
後醍醐天皇の政治とは一体どんなものだったのか?後醍醐天皇の人生と、政治についてみていきましょう。
上の写真、後醍醐天皇『絹本著色後醍醐天皇御像』を見ると、今までの天皇の御影とは異なり、かなり異様な身なりなのがわかります。
後醍醐天皇は、後宇多天皇と藤原忠子(談天門院)の第二皇子で、正応元年11月(1288年)に生まれました。
後醍醐天皇は、第96代の天皇であり、南朝の初代天皇です。
後醍醐天皇の諱は、尊治(たかはる)、大覚寺統の天皇です。
こちら「天皇家の分裂(持明院統と大覚寺統)」で書いたように、正応元年という両統迭立の真っ只中に生まれたので、両統迭立の申し子のように運命付けられた天皇でした。
もちろん、その後の「南北朝の動乱」のきっかけを作ったのが後醍醐天皇です。
正応元年(1288年)は、持明院統と大覚寺統に分かれて皇位を争っていました。
文保元年(1317年)伏見上皇が崩御すると次の皇太子を巡り両統の争いが激しくなり、仲裁を期待された幕府は、以後の皇位継承に一定の基準を定めることを目的に、両統との間で話し合いが行われました。【文保の和談】
・花園天皇が譲位して皇太子・尊治親王(後醍醐天皇)に践祚すること
・今後、在位年数を十年として両統交替すること
・次の皇太子は邦良親王とし、その次を後伏見上皇の皇子・量仁親王(光厳天皇)とすること
これら3点を幕府は両統に提案し、以降は両統迭立することで和解が成立したといわれているのが文保の和談です。
この文保の和談については、見解が分かれており、合意・決定には至らず話し合いにすぎなかった、とする学説が最近は優位のようです。
文保二年(1318年)、後醍醐天皇は花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚し、96代の天皇に即位します。
31歳というこの時代の天皇としては高齢の即位でした。
院政を執る後宇多法皇の意思で、皇位から所領まで邦良親王に譲る(治天の君)ことと決められた「中継ぎ」で「一代の主」の立場にあった天皇でした。
後醍醐天皇の親政(政治)
元亨元年(1321年)、後宇多法皇は、院政をやめて隠居、後醍醐天皇の親政となりました。
親政つまり政治を開始したのと同時期に、記録荘園券契所、いわゆる記録所を再興します。
これは、荘園整理のための文書管理を目的としたものではなく、天皇家の私的な権力行使の手段として裁決する機関としての記録所再興が目的でした。
つまり、記録所の再興は、天皇の政治への介入、例えば院領の係争における権力行使を意図した、実質的な親政(政治)が復活したことを示すものです。
正中の変
元亨四年(1324年)10月に、後醍醐天皇と側近の日野資朝、日野俊基が、鎌倉幕府に対して討幕を計画します。
その謀議を事前に察知した幕府・六波羅探題は兵を派遣して、日野資朝、日野俊基を捕えました。
幕府から工藤高景らが派遣され、日野資朝、日野俊基を鎌倉へ護送します。
後醍醐天皇は、幕府に釈明して事なきを得ますが、翌年8月、資朝は事件の首謀者として佐渡へ配流され、俊基は許されて京都へ帰還しました。
このように倒幕計画は事前に察知され失敗に終わります。(後醍醐天皇冤罪説あり)
元弘の乱
元弘元年(1331年)、正中の変(1324年)に失敗した後醍醐天皇は、再び討幕を企てます。
この計画も、事前に六波羅探題に察知され、日野俊基、僧・円観らは捕えられ、後醍醐天皇は、奈良の笠置山に逃れ籠城しますが、京都に護送され隠岐に流されます。
幕府はこの年の4月、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位させました。
後醍醐天皇の挙兵に応じた河内の土豪・楠木正成らは、赤坂城によって幕府の大軍と戦い落城すると、金剛山の千早城に籠城して幕府の大軍を悩ましました。
元弘三年(1333年)、後醍醐天皇が名和長年の働きで隠岐を脱出し伯耆に渡り、倒幕の綸旨を天下へ発しました。
後醍醐討伐の使命を帯びて関東から上ってきた幕臣・足利高氏(尊氏)が寝返り、新田義貞らも挙兵します。
同年夏、六波羅探題は足利高氏に制圧され、北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は、近江国の番場蓮華寺で自害し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられました。
鎌倉は新田義貞が難所の鎌倉切通に苦戦しますが、稲村ヶ崎の海岸線を進み鎌倉攻略に成功、北条守時や北条基時らが戦死・自害し、得宗家当主北条高時や北条貞顕らは、菩提寺・東勝寺にて自害、北条氏一門は全滅、150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
この時、後醍醐天皇は46歳、伯耆国船上山で六波羅探題滅亡の報せを受け、直ちに帰京を決意します。
後醍醐は赤松則村、赤松則祐親子や、兵庫で楠木正成に迎えられて京都へ帰還します。
建武の新政
後醍醐天皇は帰京を決意すると、持明院統・光厳天皇の即位と正慶の元号を廃止します。
さらに、光厳天皇が署名した詔書や光厳天皇のもとで叙任された官位の無効を宣言するとともに、関白の鷹司冬教を解任しました。
要するに、これまでに鎌倉幕府に強制された地位の剥奪を無かったことにします。
帰京した後醍醐天皇は、富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し政治活動である親政を開始、つまり復位ではなく1年9ヶ月前の時点に引き戻される、と主張します。
しかし、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を主導した足利高氏(尊氏)が上洛した武士を収めて京都支配を主導していました。
後醍醐天皇は、帰京するとすぐに足利高氏に内昇殿を許し、鎮守府将軍に任じます。
一方、護良親王は、信貴山にこもり高氏討伐の兵を起こそうとしたため、後醍醐天皇は護良親王を征夷大将軍に任じることで妥協させました。
後醍醐天皇は、旧領回復令を発布します。
これは、今回の戦争で奪われた所領を旧主に戻し、今後の土地所有権の変更は後醍醐天皇の綸旨を必要とする、というものでした。
さらに、鎌倉幕府の建立した寺院の寺領没収令、朝敵所領没収令、鎌倉幕府の裁判の誤りを正す誤判再審令などが発布されました。
これらの法令の裁断は、綸旨によるべきとされ、天皇専制を示すものでした。
しかし、これらの裁断が、能力を超える膨大な裁判量となり物理的に裁ききれなくなったため、早々と破綻をきたすことになり、前令撤回となる諸国平均安堵令が発せられました。
さらに、記録所、恩賞方、土地を中心に民事を司る雑訴決断所がそれぞれ設置されます。
後醍醐天皇への評価
後醍醐天皇への評価は、徳政を行った良い政治家・天皇であったという説と、独裁者・専制君主を行った暗君であったという説に大きく分かれます。
実際に起った出来事
- 鎌倉幕府の滅亡
- 建武の新政は3年で崩壊
- 光厳天皇の即位を過去に遡って廃止
- 自分の皇子を皇太子ではなく上皇にする
- 護良親王に冷淡にも再度出家を命じる
- 「尊氏なし」という名誉のみで恩賞少し
- 二条河原落書「このごろ都に流行るもの。夜討、強盗、偽綸旨」
- 後醍醐方の公家達は、後醍醐天皇の寵臣を除き、概ね建武政権に批判的
このように実績だけをみると、独裁者・専制君主を行った暗君であったという評価に手を上げざるを得ません。
客観性が高いといわれる『神皇正統記』を書いた北畠親房の評価も否定的だったようですし、庶民の評価も低く、暗君という評価にせざるを得ません。
醍醐・村上天皇の「延喜・天暦の治」を理想とし、生前から後醍醐の号を定めていた、ともいわれます。
もちろん、戦後自虐史観が横行する中で、天皇が自ら政治に参画するという独裁政治である建武の新政は、徐々に評価をさげていったことも事実です。
その後の南北朝動乱のきっかけを作ったという意味では、大化の改新以来の悪政だったと捉えることもできます。
大化の改新のように、天皇と武士という構造ができる前の古代ならともかく、武士が興隆し天皇と補完関係にある進んだ時代にあって、天皇の親政がうまくいくと考えた時点で、皇族として独断的であり、トップに立つものとして甘い考えだと言えるでしょう。
それらを差し引いても、後醍醐天皇の政治は、世の中を悪い方へ向かわせた、と考えるべきでしょう。