天皇家の分裂(持明院統と大覚寺統による両統迭立)

後深草天皇の系統(持明院統)

後深草天皇
後深草天皇 Wikipedia

後深草天皇は、寛元元年(1243年)生まれで、父・後嵯峨天皇と母・西園寺姞子(大宮院)の御子です。

文永五年(1268年)、後嵯峨上皇の指示により、年長の後深草上皇の皇子・熈仁親王より先に、亀山天皇の皇子・世仁親王が立太子します。
その前年の文永四年(1267年)、後嵯峨上皇が出家するに先立ち、長講堂領の一切の権利を後深草上皇に譲渡しました。
長講堂領は、法華長講弥陀三昧堂の略称で、後白河院の院御所である六条殿内に建立された持仏堂を起源とする、天皇家の荘園としては最大級のものでした。
また、後深草上皇への長講堂領の権利の移転によって亀山天皇の系統(大覚寺統)へ長講堂領が渡る可能性が失われ、徳治二年(1307年)には後深草上皇は息子である伏見上皇に譲渡され、以後、後深草上皇の系統(持明院統)の歴代天皇に継承されました。
ここから、後深草上皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)の対立が始まります。

文永九年(1272年)、後嵯峨法皇が治天下(政務の実権や皇位決定権)についてすべてを鎌倉幕府に委ねる形で崩御しました。
鎌倉幕府は後深草上皇・亀山天皇の兄弟どちらとも決めかねて、2人の母である故法皇の中宮・大宮院に証言を求めると、法皇の意思が亀山天皇親政にあるとのことだったので、文永十一年(1274年)、亀山天皇は後宇多天皇に譲位し、治天の君として院政を開始しました。
これに不満を抱いた後深草上皇は太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明した、との噂が広がり、幕府の責任にされるのを恐れたのか、後深草上皇寄りの西園寺実兼が執権・北条時宗と折衝し、後深草上皇の皇子・熈仁親王(伏見天皇)を同年中に立太子させることに成功しました。
その後、弘安三年(1280年)頃から、後深草上皇方による後宇多天皇退位と皇太子擁立の動きが強まり、ついに弘安十年(1287年)10月、伏見天皇即位に伴い院政を開始しました。

亀山天皇の系統(大覚寺統)

亀山天皇は、建長元年(1249年)に生まれ、父・後嵯峨天皇と母・西園寺姞子(大宮院)との皇子であり、後深草天皇に次ぐ次男になります。
亀山天皇が治天の君だった頃、ちょうど元寇(弘安の役と文禄の役)が起こっています。

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文永四年(1267年)には皇后・佶子が世仁親王(後宇多天皇)を生み、翌年、後嵯峨上皇の意向をもとに世仁親王を皇太子に立てました。
正応ニ年(1289年)9月、亀山上皇は南禅寺で出家して、法皇となります。
亀山上皇方では、亀山上皇の出家後、後宇多上皇がこの系統の「惣領」の地位にありました。
後宇多上皇は後に、京都嵯峨にある大覚寺を再興したことで、大覚寺統といわれます。

もう一つの持明院統は、永仁六年(1298年)、伏見天皇が後伏見天皇に譲位して伏見上皇の院政になりました。
伏見上皇は京都の里内裏の一であった持明院の御所を仙洞御所としたことで、持明院統といわれるようになりました。

亀山天皇は自身の系統(大覚寺統)の繁栄に力を注ぎ、持明院統と大覚寺統が交互に皇位継承を行う両統迭立のきっかけとなります。
上記で述べたように、後深草上皇が出家の意向を示すと、幕府は持明院統の冷遇を危惧し、妥協案として後深草上皇の皇子・熙仁(伏見天皇)の立太子を企画します。
建治元年(1275年)に熙仁皇子は亀山上皇の猶子となり皇太子となります。
続いて弘安九年(1286年)には亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多天皇の皇子・邦治(後二条天皇)が親王宣下されました。

両統迭立(りょうとうてつりつ)とは【基礎知識】

両統迭立とは、「両統」=2つの血統、を意味する語と、「迭立」=代わる代わる(交互に)立つこと、が合体してできた語です。
もっぱら「両統迭立」という表現で用いられ、二分した統治者の家系から交互に統治者を即位させる状態を指す語として用いられます。
主にここに記載した大覚寺統と持明院統の両統迭立を指すことが多いのですが、本来は、日本のみならず、海外においても「両統迭立」の事例があります。
平安時代前期の嵯峨天皇と淳和天皇の場合や、平安時代中期の冷泉天皇と円融天皇の両統迭立があります。

簡潔に言うと、両統迭立とは鎌倉時代後期、後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統から交互に皇位につくとされた皇位継承の原則です。

悪党の出現

悪党とは、鎌倉中期・末期から南北朝時代初頭にかけて、当初は夜討、強盗、乱入、刃傷、横領などの悪行を行い、その後、反幕府、反荘園体制的行動をとった在地領主、新興商人、有力農民らの集団をいいます。

永仁の徳政令

永仁の徳政令は、永仁五年(1297年)3月、鎌倉幕府執権・北条貞時が発令した徳政令のことです。

  1. 越訴禁止
    • 訴訟が遅延したり判決に不服があった場合、越訴奉行に上告するのを禁止する
  2. 質流れ地および売却地
    • 今後、所領(土地)の入質・売却を認めず、以前に売却したものも、もとの所有者が無償で取り返すことができる
  3. 利銭・出挙
    • 貧困者救済のため、今後、銭貸借についての訴訟は受理しない

このように御家人などが困窮したため、御家人を是正、救済するという主旨で出されました。
しかし、徳政令は売買、貸借取引の減少を誘発し、ますます困窮者が増えるという弊害が発生しました。
御家人に金銭を貸すと戻ってこないという事態を恐れ、売買、貸借取引が抑制され、ますます御家人を困窮させることになったのです。

気候寒冷化の影響か?

私は、平安時代までの温暖な気候が鎌倉時代後期に急速に寒冷化したのが経済困窮、悪党出現の要因なのではないかと推測しています。

元々悪党は存在したでしょうが、1200年代後半から気候の寒冷化が起こり、農作物の不作が長期的に発生することで、人口に見合う農作物の収穫量を確保できず、略奪が発生し治安が悪化したのが悪党増加の原因ではないかと推察します。
比較的長期的な気候変動は、一時的な略奪、横領で収まらず、権力者、政治体制への反抗として結実します。

寒冷化は鎌倉時代から室町、戦国時代へと断続的に起きたり継続しています。
下記に、東京大学大気海洋研究所の最新研究を引用しておきます。

西日本における歴史時代(過去1,300年間)の気候変化と人間社会に与えた影響
2017年1月4日

平安初期(西暦820年)の嵯峨天皇の頃に最高気温(25.9℃)を記録しました。一番寒かったのは、平清盛の生きた平安後期(11~12世紀,約24.0℃)で、聖徳太子の活躍した飛鳥時代初期(600年頃,24.7℃)、応仁の乱の後の戦国時代初期(1450年頃,24.4℃)も寒冷でした。奈良時代後期、室町時代などは温暖で概して平和、寒冷期は社会の変革の時期に対応していました。

950~1250年頃は、ユーラシア大陸を中心として「中世温暖期」として有名です。しかし、本研究で得られた結果は予想外に「寒冷」でした。「日本には中世温暖期はなかった」ということになります。
たぶん、大規模なエルニーニョが原因と考えられます。

弥生時代の開始期、貴族政治の開始期、武家政治の開始直前、近代社会の開始直前と、社会の仕組みが大きく変化する境界期のほとんどが気候の寒冷期に対応していました。

川幡穂高(東京大学大気海洋研究所)

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