邪馬台国論争
前々回「邪馬台国と卑弥呼」の記事にも少し書きましたが、邪馬台国論争といわれる議論が展開されています。
古くは江戸時代の新井白石、本居宣長が自説を述べ、明治時代には那珂通世が新たな説を発表するなど近世にも邪馬台国論争は行われていました。
邪馬台国論争が本格化するのは、明治43年(1910)の白鳥庫吉の九州説と内藤湖南の畿内説の発表からだと言われています。
古文書読解中心の史学研究から発生した論争は考古学を巻き込んで更に拡大していきます。
特に考古学は炭素14年代による年代測定の精度向上や戦後高度経済成長による土地開発で発掘数が増えたことにより邪馬台国論争に変化をもたらしています。
そして、九州説と畿内説といった場所の議論とは別に、邪馬台国の女王であった卑弥呼は誰なのかという議論も付随して展開されていきます。
邪馬台国畿内説(大和説)
最近の議論の中心は、纒向遺跡(奈良県桜井市)、箸墓古墳(桜井市)の発掘と年代測定に改良が加えられたことにより、畿内説(大和説)が盛り上がっていることです。
纒向遺跡はJR桜井線の巻向駅周辺にあり、その南側に箸墓古墳が所在します。
箸墓古墳は卑弥呼の墓と推定される古墳です。
炭素14年代測定法により箸墓古墳の年代が240年~260年頃と推定されました。
つまり、邪馬台国の時代が弥生時代後期ではなく、古墳出現期に該当すると考えられるように変化してきました。
しかし、同時代ということだけで畿内説が確定するものではなく、画期的な証拠が見つからない限り、邪馬台国=大和説が正しいとは断定できません。
ましてや、魏志倭人伝に書かれた方向を南から東に変えることになんの論拠もないのが現状です。
邪馬台国九州説
邪馬台国九州説は魏志倭人伝の文を素直に読めば九州に所在すると論じます。
ただし、距離については短里(1里=約75~90m)を用いたと仮定しています。
1里=約434mの長里を採用すると邪馬台国は海の彼方になってしまうためです。
邪馬台国九州説は、九州の具体的な地名が特定できないという課題があります。
九州説にも以下のような仮説が存在します。
- 筑後山門説 現在の福岡県山門郡に該当
- 肥後山門郷説 熊本県菊池郡内で『和名抄』にある郷名
- 大隅薩摩説 九州南部
- 宮崎県都城説 九州南部
- 筑後御井説 福岡県久留米市御井町
- 豊前山戸説(宇佐説ともいう)
- 肥前島原説
- 筑前甘木説
北部九州から九州南部まで様々です。
どれも一長一短あって納得いく説は見当たりません。
国家を形成するに値する都市の痕跡が見つからないのが致命的です。
畿内説、九州説に限らず、決定的な証拠が出ない限り、永遠に続くのでしょうが。
20世紀初期には、主に久米邦武の邪馬台国論が有名です。
久米邦武は、それまでの本居宣長などの邪馬台国論への批判で成り立ちます。
久米によると、邪馬台は山門となります。
『日本書紀』神功皇后摂政前紀の山門県の土蜘蛛田浦津姫は卑弥呼の先代の女酋とみなしています。
これではいわゆる行程論で辻褄が合わず、読み換えを行うことでこの疑問を解消しています。
邪馬台国は❝理念の国❞説
中国古代史の渡邉義浩氏著作『魏志倭人伝の謎を解く』で説くのが「邪馬台国は会稽郡東冶県の東方南海上に理念上存在する」というものです。
最多の字数
中国の正史は、『史記』から始まり『明史』まで二十四を数えるが、日本に関する
列伝を含むものは十四、異民族のなかで日本に関する記録の字数が最も多いものは
倭人伝だけである。
それほどまでに力を込めて、陳寿が倭人伝を描いたのは、司馬懿の功績を宣揚する
という目的に加えて、事実としても、倭国と曹魏が密接な関係を結んでいたためで
ある。呉と会稽
陳寿が、倭人伝を書く際に種本とした魚豢の『魏略』は、倭人を呉との関わりで描
いていた。・・・・『魏略』に、「倭人は自ら考えるに太伯の後裔であるという」
とある。一万二千里の理由
陳寿が、帯方郡から邪馬台国までの距離を一万二千里としたのは、直接的には『魏略』
に従ったのであろう。
邪馬台国の卑弥呼に与えた「親魏倭王」とクシャーナ朝のヴァースデーヴァ王に与えた
「親魏大月氏王」の釣り合いを保つために、邪馬台国とクシャーナ朝は、洛陽から等距離
に置かれたとするもので、有効な考え方といえよう。理念の背景
倭人伝に記される邪馬台国は、九州でも大和でもなく、会稽郡東冶県の東方海上に存在する。
これが、理念のうえから見た邪馬台国の位置である。しかしながら、倭人伝をすべて理念の産物と片づけることも正しくない。
渡邉義浩氏著作『魏志倭人伝の謎を解く』から引用
邪馬台国は存在しなかった説
歴史家の田中英道氏著作『邪馬台国は存在しなかった』で説くのが「魏志倭人伝は三国志の中の物語」というものです。
「邪馬台国」論争は、日本の歴史の根幹は天皇であることを否定するための論争であり、この論争のケリをつけない限り、誰が見ても明らかな、日本の歴史を無視する「歴史認識」が続くことになります。何世紀にもわたって繰り返されている不毛な「邪馬台国」論争をこのままにしておくことは、日本の歴史家の不見識を、世界に示し続けることになります。
『邪馬台国は存在しなかった』田中英道著 勉誠出版
魏志倭人伝の記述がもともとおかしい。
これまでの「邪馬台国」論争のどれを読んでも、すべて『魏志倭人伝』を様々に解釈し合っているに過ぎない。と著者は言います。
卑弥呼の時代から変わることのない中国人の歴史観つまりマルクス主義史観が反映されていると言います。
それは、政権を握った政府の政治観に従って歴史を捏造するということです。
「卑弥呼=ひみこ」と「ひのみこ=日皇子」が語感で似ているのは単なる偶然にすぎないのに「卑弥呼=ひみこ」という言葉には、天照大神の皇祖神化、伊勢神宮の創建、国家神話の体系化といったことの大元が見いだせる、としました。
『邪馬台国は存在しなかった』田中英道著 勉誠出版
これは「万世一系の天皇家というものを疑う」という戦後の考え方の潮流つまりイデオロギーにもとづくものです。