大東亜戦争(アジア・太平洋戦争):結果から探る
大東亜戦争は、誰が仕掛けたのでしょうか?
そして、どういう意義があったのでしょうか?
まずは、その結果から遡って探っていくことにします。
日本史アップデート:韓国併合で日本がしたこと(前編)
日本史アップデート:韓国併合で日本がしたこと(後編)
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.
Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じる。
ダグラス・マッカーサー Wikipedia
したがって、日本が戦争に突入した目的は、主にセキュリティ(安全保障)に迫られてのものでした。
これは、ダグラス・マッカーサーが、国際連合軍総司令官解任後の1951年5月3日、アメリカ上院の軍事外交共同委員会において、日本についての質疑が行われた時の発言です。
”セキュリティ(安全保障)”つまり自衛のために戦争を始めたのであり、侵略戦争ではないと捉えることもできます。
さらに、マッカーサーは、こう述べています。
「太平洋でのこの百年の政治的な誤りは、中国において共産主義者に権力を握らせたということだと、個人的に私はそう考えるのです」
マッカーサーは中国が共産化し、朝鮮半島が分断されてから、ようやく日本との戦争が間違いだったと悟ったのです。
東京裁判(極東国際軍事裁判)とA級戦犯
昭和二十一年(1946年)5月、極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が行われます。
国の内外に配備された陸・海軍の将兵約789万人の武装解除・復員が進み、日本の軍隊は急速に解体・消滅した。1945(昭和20)年9月から12月にかけて、GHQは軍や政府首脳など日本の戦争指導者たちをつぎつぎに逮捕したが、うち28人がA級戦犯容疑で起訴され、1946(昭和21)年5月から東京に設置された極東国際軍事裁判所で裁判が始まった(東京裁判)。
『詳説 日本史B 改訂版』 山川出版社 2016(平成28)年3月18日 文部科学省検定済
ここにいう「A級戦犯」とは何でしょうか。
A級戦犯 <出典:『Wiktionary』 (2021/08/14 10:14 UTC 版)>
- 《日本史》 極東軍事裁判で、連合国側が作った戦争法(戦時国際法)の「a項」に違反した者。なお、A級とは、”a.” を読む際の “class a” を直訳したものである。
- (誤用。A級の「級」を等級の「級」と誤解)重要戦争犯罪人。
要は、本来「a項」に違反した者という意味しかもたなかった用語が独り歩きし、「A級」=重要戦争犯罪人という意味に捻じ曲げられたということです。
A級戦犯を見てみます。
- 関東軍:板垣征四郎(死刑)・南次郎(終身刑:1954年仮釈放)・梅津美治郎(終身刑:1949年死去)
- 特務機関:土肥原賢二(死刑)
- 陸軍:松井石根(死刑)・木村兵太郎(死刑)・武藤章(死刑)・荒木貞夫(終身刑:1954年仮釈放)・畑俊六(終身刑:1954年仮釈放)・佐藤賢了(終身刑:1956年仮釈放)・橋本欣五郎(終身刑:1955年仮釈放)
- 海軍:永野修身(死去)・嶋田繁太郎(終身刑:1955年仮釈放)・岡敬純(終身刑:1954年仮釈放)
- 総理大臣:東條英機(死刑)・広田弘毅(死刑)・平沼騏一郎(終身刑:1952年仮釈放)・小磯国昭(終身刑:1950年死去)
- 内大臣:木戸幸一(終身刑:1955年仮釈放)
- 大蔵大臣:賀屋興宣(終身刑:1955年仮釈放)
- 外務大臣:松岡洋右(死去)・重光葵(懲役7年)・東郷茂徳(禁錮20年:1950年死去)
- 外交官:大島浩(終身刑:1955年仮釈放)・白鳥敏夫(終身刑:1949年死去)
- 企画院総裁:鈴木貞一(終身刑:1955年仮釈放)・星野直樹(終身刑:1958年仮釈放)
- 民間人:大川周明(訴追免除)
A級戦犯で起訴された28名中、7名が死刑になりました。
しかし、7名以外はほとんどが終身刑にかかわらず仮釈放されており、この裁判が本当に正当だったのか疑問が持たれても仕方がない結果に終わっています。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本占領
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)(GHQはGeneral Headquarters, SCAPはthe Supreme Commander for the Allied Powers)は、第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施しました。
昭和二十年(1945年)10月2日、東京都に総司令部が設置され、ダグラス・マッカーサーが連合国軍最高司令官(SCAP)に任命されました。
そして、昭和二十七年(1952年)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効されるまで占領政策が続きました。
GHQが行った施策
- 公職追放
- 言論統制
- 教育改革
- 日本国憲法の起草
- 財閥解体
- 農地改革
中国の共産化
日本が大東亜戦争で敗北すると、中国では、国共内戦(第二次国共内戦)が勃発します。
中国の共産化を防いでいた日本がいなくなり、一気に共産化へと進んでいきます。
共産党は表に出ず裏にまわり「国民党を利用して反ファシズム・反帝国主義を目標とする人民戦線を結成する」というコミンテルンの戦術に邁進していました。
つまり、国民政府軍が日本との戦いで消耗していたのに対し、共産党は裏で力を蓄えながら、一般大衆からの支持を得るようになります。
さらに、日本の敗北後、中国共産党はシベリア、満州の日本軍から兵器を獲得しながら、ソ連からの援助も受け、国民政府と戦いました。
共産党は、中国北部から徐々に南下して国民政府を圧迫し、中華民国に代わる国家として、1949年10月1日、毛沢東による中華人民共和国が建国されました。
さて、一方の国民政府は政府を中国本土から台湾へ逃れ、中華民国という国家の消滅は避けることができました。
そして、台湾の中華民国と中華人民共和国は中国統一を巡って、現在も対立関係状態に至ります。
朝鮮戦争
ヤルタ会談の中で、1945年2月8日、アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長、イギリスのチャーチル首相との間で交わされた秘密協定が結ばれます。
朝鮮半島は連合国の信託統治とされ、戦争終結の直前に、北緯38度線を境として暫定的に南側をアメリカ、北側をソ連へと分割占領することが決定されました。
金日成こと、金聖柱(金成柱)は1912年に満州で生まれています。
父は金亭稷といい漢方医あるいは薬商を営み、アヘンの密売などで一時は裕福な暮らしをしていたようですが、共産党組織への献金のもつれから1926年に暗殺されています。
金聖柱(金成柱)は、その後共産党系の馬賊の一員となっていますが、朝鮮独立運動の経歴はありません。
これは、日本が連合軍に降伏した後、ソ連によって北朝鮮に連れてこられたと言われています。
また、初代金日成は旧陸軍士官学校出身の金顕忠であるという説もあります。
「金日成(キム・イルソン)」と名乗り、大正から昭和初期にかけて旧満州(現中国東北部)で抗日独立運動を指導したとされる人物が、日本の旧陸軍士官学校出身であることを示す資料が29日までに発見された。北朝鮮の最高指導者に就いた金日成主席は、いわば「初代金日成」ともいえるこの人物の名前や名声を踏襲して権威付けを図ったとされ、今回の発見は、金政権がよって立つ抗日闘争史の根幹を揺るがすものともいえそうだ。
初代金日成は旧陸軍士官学校出身 卒業名簿に本名記載、伝説的抗日運動家、政権が名声利用(産経新聞)より
この人物は本名を「金顕忠(ヒョンチュン)」といい、日本の陸士出身との説があったが、確かな証拠はなく、その出自は長く謎とされてきた。
今回、東京都内の陸士関係者の子孫宅から見つかった「陸軍中央幼年学校本科第八期卒業生徒人名表(明治四十二年五月)」の末尾には、「韓国学生 金顕忠 二二、〇〇」と記されている。同じく「明治四十四年五月 陸軍士官学校第二十三期生徒卒業人名」には「騎兵」の最後に、「朝鮮学生 金顕忠」とあった。
アメリカ・ソ連の駆け引きが行われ、1948年8月15日、朝鮮半島南部に大韓民国が、半島北部に朝鮮民主主義人民共和国が樹立され、ソ連軍大尉であった金日成(金聖柱・金成柱・金顕忠)が初代首相に任命されました。
1950年6月、金日成が率いる北朝鮮は、ソ連・スターリンの支援を受けて、事実上の国境であった北緯38度線を越えて侵略戦争(朝鮮戦争)を起こしました。
アチソンラインというものがあります。
アメリカの国務長官ディーン・アチソンが1950年1月に宣言した防衛ラインのことです。
つまり、日本・沖縄・フィリピン・アリューシャン列島を結ぶ線を不後退防衛線(アチソンライン)として絶対に防御するというものです。
そのため、この中に台湾・朝鮮半島・インドシナ半島などが入っていなかったため、南朝鮮が侵略を受ける起因となりました。
1950年6月28日、ソウルが陥落、南朝鮮では、「保導連盟事件」で20万人とも100万人ともされる虐殺事件や、アメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きたりしました。
苦境が続く中、起死回生の突破口として1950年9月15日、アメリカ軍は約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功し、その後、平壌まで攻め込みます。
そして、苦境に立たされた金日成は、ソ連に支援を請いますが、スターリンはそれを拒否、中国に半島への介入を認めました。
その後、トップのマッカーサーが日本から日帰りで指揮するなど、元々士気の低かった連合軍は、北緯38度付近で膠着状態となりました。
1953年7月27日、北緯38度線近くにある板門店で北朝鮮・中国軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、現在まで集結せず休戦状態が続いています。
朝鮮戦争における死者数は、韓国:240万人、北朝鮮:292万人、国連軍:15万人、中国軍:90万人と言われています。
日本への余波
■良い影響
アメリカ軍の設備増強が、日本の産業界に波及し、10~30億ドルの朝鮮特需が起きました。
■悪い影響
在日朝鮮人や日本共産党などによるテロ事件が発生しています。
- 昭和二十六年(1951年)3月、北朝鮮を支持する在日朝鮮人による浅草米兵暴行事件
- 同年12月、東成警察署襲撃事件
- 同年12月、国連軍を支援する工場に対して襲撃が加えられた親子爆弾事件
- 昭和二十七年(1952年)5月、血のメーデー事件、高田事件、大梶南事件
- 同年6月、吹田事件・枚方事件
- 同年(1952年)7月、大須事件
戦争から逃れるため、やむを得ず日本へ密入国する者が増加し、韓国が返送を拒んだため不法滞在者が日本に留まることになりました。
これは現在の在日朝鮮人問題へとつながっていきました。