足利尊氏

足利尊氏は、嘉元三年(1305年)、足利貞氏の次男として生まれました。
足利尊氏の出生地は諸説あります。

  • 下野国足利荘(栃木県足利市)
  • 丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(京都府綾部市上杉)
  • 相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)

元弘元年(1331年)、正中の変(1324年)に失敗した後醍醐天皇は、再び討幕を企てます。
元弘の乱です。

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天皇家の分裂(持明院統と大覚寺統による両統迭立)

元弘三年(1333年)、後醍醐天皇が名和長年の働きで隠岐を脱出し伯耆に渡り、倒幕の綸旨を天下へ発しました。
後醍醐討伐の使命を帯びて関東から上ってきた幕臣・足利高氏(尊氏)が寝返り丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府として挙兵、関東では新田義貞らも挙兵、鎌倉幕府が滅亡します。

鎌倉幕府滅亡の勲功により、鎮守府将軍・左兵衛督に任ぜられ、後醍醐天皇の諱・尊治の名をもらい、高氏から尊氏に改名します。
京都では護良親王とともに六波羅攻撃を主導した足利尊氏が上洛した武士を収めて京都支配を主導していました。
後醍醐天皇は、帰京するとすぐに足利尊氏に内昇殿を許し、鎮守府将軍に任じます。

一方、護良親王は、信貴山にこもり足利尊氏討伐の兵を起こそうとしたため、後醍醐天皇は護良親王を征夷大将軍に任じることで妥協させました。

中先代の乱

建武二年(1335年)6月、公家で権大納言・西園寺公宗、橋本俊季、日野氏光らが、持明院統の後伏見法皇を擁立して後醍醐政権転覆を企てた陰謀が発覚します。
これを中先代の乱といいます。

北条高時の弟・北条泰家が西園寺公宗に匿われ、北条時興と改名し京都で兵を起こす計画でした。
後醍醐天皇は、西園寺公宗、氏光らを捕らえ流罪に処します。

翌月には北条高時の遺児・北条時行が潜伏していた信濃にて反乱を起こし鎌倉に迫ります。

この戦乱の最中、足利直義は、監禁中の護良親王を殺害しています。

時行軍の侵攻により、足利尊氏が後醍醐天皇に対して時行討伐の許可と同時に、武家政権の樹立に必要かつ十分な官職である総追捕使と征夷大将軍の役職を、建武政権に要求します。
後醍醐天皇はこの要請を拒否します。
8月2日、西園寺公宗が処刑された日、足利尊氏は勅状を得ないまま出陣し、三河矢作宿で直義に迎えられ、遠江橋本の戦いをはじめ、各地で時行軍を撃破、鎌倉を奪還しました。
北条時行の名をとって、中先代の乱といいます。

足利尊氏の謀反:建武の乱

天皇の帰京命令に反して、足利直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え、独自の武家政権創始の動きを見せはじめました。

新田義貞

11月、足利尊氏は新田義貞を「君側の奸」であるとして天皇にその討伐を要請しますが、天皇は逆に義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じました。

義貞の出自については不明な点が多く、生年は正安三年(1301年)頃と思われます。
出生地については諸説あります。

  • 新田郡宝泉村由良(太田市宝泉)
  • 新田郡生品村反町館(太田市新田)
  • 碓氷郡里見郷(高崎市榛名)

三河矢作の戦いで新田軍が矢作川を渡ってきた足利軍を破って勝利し、追撃する新田軍を足利軍は駿河国で迎撃します(手越河原の戦い)が、ここでも敗北となりました。

南北朝分裂

建武三年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山に逃れます。
しかし尊氏は、奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒され、1月30日の戦いで敗れます。
その後、尊氏は摂津国兵庫から播磨国室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を離れ、海路九州に走りました。

足利尊氏は、京に向かう途中の鞆で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上しました。

建武三年(1336年)5月25日、摂津国・湊川の戦いで、足利尊氏は、新田義貞・楠木正成の軍を破り、再び京都を制圧しました。(延元の乱)

足利尊氏は、後醍醐天皇との和平工作を行い、新田義貞は事実上、天皇から切り捨てられる形となりました。
裏切られた形になった新田義貞は、10月10日に北陸敦賀を目指して北上しました。
敦賀の気比神社の宮司に迎えられた義貞は、金ヶ崎城に拠点をおきますが、斯波高経を攻めようとした途中、藤島の戦いで敗死しました。

和議に応じた後醍醐天皇は、11月2日に光厳上皇の弟・光明天皇に三種の神器を授けました。
11月7日、尊氏は、「建武式目」十七条を定め、政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言します。
一方、12月21日、後醍醐天皇は、京を脱出して吉野に入り、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷(南朝)を樹立、南北朝に分裂しました。

観応の擾乱

南朝と北朝に分かれた朝廷と足利政権は、新たな内紛と分裂がめばえはじめます。

足利直義

足利直義は、足利貞氏の三男で、次兄の尊氏と同じ、足利貞氏の側室である上杉清子が産んだ子です。
足利直義は、兄・尊氏とはタイプの違う性質だったようで、当時の定評として『梅松論』夢窓疎石の評の「御身ノ振舞ハ廉直ニ、御政道事ニヲヒテ、ゲニゲニシク(誠実)、偽レル御色ナシ」という謹厳実直な性格がうかがわれます。
生年は、徳治元年(1306年)または徳治二年(1307年)です。

暦応元年(1338年)、足利尊氏は征夷大将軍に、足利直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と直義で二頭政治を行い「両将軍」といわれました。

高師直

高師直(こうのもろなお)は、足利尊氏に執事として仕え、尊氏の代弁者の役割を担う人物です。
兄弟の高師泰も尊氏の侍所となり、高師直とともに権力を握っていきます。
高師直と高師泰は兄弟ですが、どちらが兄でどちらが弟かは生年が不明で、諸説あり確定していません。

高師直の特徴をよく表すのが、「石清水八幡宮焼き討ち」事件です。
延元三年/建武五年(1338年)、南朝の北畠顕家を敗死させた師直は、京都の男山の石清水八幡宮に籠城する南朝別働隊に火を放って焼き滅ぼしました。
この石清水八幡宮は清和源氏の氏神と仰がれる神社です。
さらに、正平三年/貞和四年(1348年)、南朝臨時首都の吉野行宮から金峯山寺の本堂蔵王堂まで、ことごとく焼き払いました。
高師直の行為は、当時の京都の貴族社会を「国家の安危」「言語道断」と震撼させるほどでした。
神仏の罰も天皇の権威も恐れぬ高師直は、合理的な考えで自由な作戦を取り得た人物だったといえるでしょう。

豪放磊落、自由な考えを持つ「陽」な性格の高師直に対し、謹厳実直、まじめな「陰」の性格をもつ足利直義は、それぞれ分かれて二つの党派を形成していきます。

政所、侍所、などは尊氏の管轄に、問注所、引付方はどは直義の管轄のもとに組み入れられていたと見ることができます。

対立は、まず足利直義と足利尊氏の執事・高師直との間において顕著になります。

観応の擾乱勃発

貞和五年/正平四年(1349年)6月、直義側近の上杉重能・畠山直宗らが、直義の信任を得ていた禅僧・妙吉を抱き込み、讒言によって高師直は、執事職を罷免されます。
8月、直義の計略を察知した高師直は、師泰とともに挙兵して京都の直義邸を襲撃します。
直義は、尊氏の邸に逃れますが、高師直は上杉重能・畠山直宗の引き渡しを要求し尊氏邸を包囲、交渉の結果、上杉重能・畠山直宗は配流に処し、直義を政務から引退させ、尊氏の嫡子・足利義詮を政務に当たらせる、という合意を取り付けます。

夢窓疎石の仲介で、直義と高師直らの政務復帰という原状復帰がなされたかと思われましたが、実際は、上杉重能・畠山直宗は殺害され、直義も引退を余儀なくされ、結局、出家して、恵源と名を変えることになりました。

直義の出家後、高師直は、尊氏の嫡子・足利義詮を補佐して幕政の実権を握ります。

正平五年/観応元年(1350年)、直義の養子・足利直冬を討伐するために、高師直は足利尊氏と共に中国地方へ遠征します。
このときに、直義はその留守に乗じて京を脱出し、南朝(後村上天皇)に降って手を結び、南朝・足利直冬と共に師直誅伐を掲げて挙兵し、尊氏・師直と本格的に交戦します。

正平六年/観応ニ年(1351年)、播磨国光明寺城や摂津国打出浜での戦いで、直義・南朝方に敗れた尊氏は、師直、師泰兄弟の出家を条件に和睦するものの、師直、師泰兄弟は、京への護送中に、直義派の上杉能憲によって武庫川畔(兵庫県伊丹市)で殺害されました。

しかし直義は、南朝に降った後も、文書に北朝で用いられた観応の年号を使用しており、降伏は形式的なものであったと解釈されています。

この一連の政変を通じてその立場が判然としないのが、師直と直義の間にあって終始揺れ動いた尊氏である。その動静をめぐっては、局外中立を貫いていたとする説、優柔不断で日和見をしていたとする説、そもそも尊氏は直義方を排除するために師直と示し合わせていたとする説など、さまざまな解釈がある。

その後浄妙寺 (鎌倉市)境内の延福寺に幽閉された直義は2月26日(西暦3月12日)に急死した。
公には病没とされたが、この日は高師直の一周忌にあたり、『太平記』の物語でも尊氏による毒殺であると描かれていることから、毒殺説を支持する研究者としない研究者に分かれる。

一般に、直義の死をもって擾乱の決着とする。

観応の擾乱 Wikipedia

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