韓国併合で日本がしたこと(前編)
韓国併合において日本は何をしたのか?その実態を見ていくことにします。
韓国併合について、特に言われているのが、下記のような言説です。
- 韓国人を日本人にして漢民族を消滅しようとした。
- 漢民族を蹂躙して奴隷のように扱われた。
- 伊藤博文を暗殺した安重根は英雄である。
- 創氏改名による日本氏名の強要。
- 戦争時、日本に労働者として不法に強制連行されて働かされた。
少し長くなりますが、韓国併合に至るまでの過程を、欧米列強の動きを交えて、明治維新前後から見ていくことにします。
征韓論
明治維新の偉人たちは、国内を近代化するとともに、列強に立ち向かうために富国強兵を進めます。
その頃、欧米列強は日本だけでなく、中国、朝鮮をターゲットに開国、植民地化を迫っていました。
しかし、朝鮮や中国が植民地されると同じ東アジアである日本にもその脅威が迫ります。
それゆえ、アジア各国が独立して近代化し、欧米列強に対抗する必要があり、その中から征韓論のような議論が起こります。
徳川幕府が終わり、明治時代が始まると、その原動力となった者たちは、権力闘争に明け暮れ、派閥を形成していきます。
長州出身の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、薩摩出身の黒田清隆、西郷従道、大山巌、松方正義などによる藩閥政治です。
そのような中、西郷隆盛は、藩閥政治に対抗するかのような存在として、「征韓論」を展開し、藩閥政治に立ち向かっていました。
大東亜の建設を目指し、朝鮮、清国と友好を結び、欧米列強の進出を抑えようとしました。
しかし、征韓論をきっかけに西郷隆盛は西南戦争を起こし、討伐されました。
維新政府は李氏朝鮮国王に日鮮修好を求めますが、李氏朝鮮は鎖国政策を守り、交渉を拒絶しました。
そして、日本政府には国辱だという意見が強まり、板垣退助らは強硬出兵論を唱え、西郷隆盛は、まず自分が使節として朝鮮に渡り、交渉が決裂したらその後、出兵すべきとしました。
福沢諭吉の脱亜論
明治九年(1876年)、李氏朝鮮では閔妃一族らを主流派とする政権が、攘夷から開国政策に切り替え、アメリカと米朝修好通商条約を締結、フランス、ロシアなどとも通商条約を結び、開国しますが、国内は騒乱状態にありました。
それに、壬午軍乱、甲申事変という内乱が発生、李氏朝鮮は隷属する清に乱の鎮圧を要請し、金玉均などの独立派は敗北しました。
そして、この頃、福沢諭吉は、「脱亜論」を社説で発表、近代化を拒否し旧態依然として亡国化への道を歩む朝鮮・清国には見切りをつけようということを主張しました。
下記に「脱亜論」の一部を抜粋したものを引用掲載します。
その影響の事実に現われて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云いうべし。左されば今日の謀を為に、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜アジアを興おこすの猶予あるべからず、寧、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免るべからず。我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。
脱亜論(『福澤諭吉著作集』収録版) Wikisource
その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大不幸というべきである。そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。
参考現代語訳 Wikisource
李氏朝鮮も清国も自国の置かれた状況に気づかず、旧態依然とした政治体制に執着していることに対し、福沢諭吉を代表する言論が絶交を宣言せざるを得なかったという状態でした。
明治十八年(1885年)、日本と清国は、伊藤博文と李鴻章が交渉、下記のような天津条約を締結します。
- 日清両国は朝鮮から撤退
- 朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない
- 将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要とし、派兵後は駐留しない
日清戦争
明治二七年(1894年)1月、朝鮮で農民による東学党の乱が起きると、李氏朝鮮は清国に援軍を要請、清国側の派兵の動きを見た日本政府も、6月に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し、8月、日清戦争が勃発し、日本が勝利しました。
その結果、明治二八年(1895年)、下関条約が締結されました。
- 清国は朝鮮が完全無欠な独立自主の国であることを確認する
- 遼東半島、澎湖島、台湾を日本に割譲
- 軍費賠償金として約3億円を日本に支払う
- 沙市・重慶・蘇州・杭州で日本が商工業活動を行なうことなどを清国が承認
この結果を受けて、ロシアは、フランス・ドイツと連携して日本に干渉してきます、いわゆる三国干渉です。
そして、遼東半島を清国に返還させられ、その後ロシアが遼東半島を清から租借することになりました。
日露戦争
明治二十九年(1896年)、ロシアはニコライ二世の載冠式に李鴻章を大使として招き、大蔵大臣・ヴィッテは対日攻守同盟の締結を迫りました。
その結果、ロシア外相ロバノフとの間に攻守同盟が結ばれました。(露清密約、李・ロバノフ密約)
この露清密約によって、清国はロシアに東清鉄道の敷設権と軍隊輸送権を与えました。
日本は日露開戦後までこの密約の存在を知らず、日露協商策を進めますが、この密約の存在により失敗した結果、日英同盟を選びました。
もしも、日露戦争前に露清密約のことを日本が知っていれば、歴史は大きく変わっていたことでしょう。
明治三七年(1904年)2月、満州南部と遼東半島を戦場として、1905年(明治38年)9月まで繰り広げられたのが日露戦争です。
バルチック艦隊を撃破して日本が勝利しました。
朝鮮半島と満洲の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされたのは確かですが、日本はあくまでもアジア各国の独立を目指した戦いでした。
日露戦争のとき、戦費を調達してくれたのは、ユダヤ資本でした。
日銀副総裁・高橋是清は、同盟国のイギリスでの交渉の結果、香港上海銀行のロンドン支部長ユーウェン・キャメロンらが公債発行に応じ、さらにクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフなどユダヤ人脈も外債を引き受け、戦費調達ができました。
ちなみに、ユーウェン・キャメロンは、キャメロン英元首相の高祖父です。
ジェイコブ・シフは、ドイツ・フランクフルトのゲットーで生まれ、1865年にアメリカに渡り、クーン・ローブ商会に就職、1885年にはソロモン・ローブの娘と結婚してクーン・ローブ商会の共同経営者に就任しています。
日露戦争中の明治三十八年(1905年)、アメリカは陸軍長官・ウィリアム・タフトを特使として日本に派遣し、桂・タフト協定を結びます。
- 日本は、アメリカの植民地であったフィリピンに野心がないことを表明
- 極東の平和は、日本、アメリカ、イギリスの3国によって守られるべきである
- アメリカは、日本の韓国における指導的地位を認める
さらに、ポーツマス条約によって、朝鮮における日本の権益の承認、関東州の租借権および、長春~旅順間の鉄道と付属利権の譲渡、南樺太などの日本への割譲、沿海州の漁業権の許与などを決定しましたが、賠償金が獲得できないなど、講和の内容に国民の不満が高まり、日比谷焼打事件のような暴動が起きました。
そして、エドワード・ハリマンがジェイコブ・シフとともに来日し、1905年10月、奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されますが、モルガン商会からの有利な条件を提示されていた外務大臣・小村寿太郎の反対によって破棄されました。
■日露戦争後の国際関係
日露戦争後の日本は、戦勝で得た大陸進出拠点の確保につとめた。まず1905(明治38)年、アメリカと非公式に桂・タフト協定を結び、イギリスとは日英同盟協約を改定(第2次)して、両国に日本の韓国保護国化を承認させた。これを背景として日本は、同年中に第二次日韓協約を結んで韓国の外交権を奪い、漢城に韓国の外交を統轄する統監府をおいて伊藤博文が初代の統監となった。
詳説日本史B 改訂版 山川出版社 2016(平成28)年3月18日 文部科学省検定済
これに対し韓国皇帝高宗は、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に密使を送って抗議したが、列国に無視された(ハーグ密使事件)。日本は、この事件をきっかけに韓国皇帝高宗を退位させ、ついで第3次日韓協約を結んで韓国の内政権をもその手におさめ、さらに韓国軍を解散させた。これまでも植民地化に抵抗して散発的におこっていた義兵運動は、解散させられた韓国軍の元兵士たちの参加を得て本格化した。日本政府は、1909(明治42)年に軍隊を増派して義兵運動を鎮圧したが、そのさなかに前統監の伊藤博文が、ハルビン駅頭で韓国の民族運動家安重根に暗殺される事件がおこった。日本政府は憲兵隊を常駐させるなどの準備のうえに立って、1910(明治43)年に韓国併合条約を強要して韓国を植民地化し(韓国併合)、漢城を京城と改称してそこに統治機関としての朝鮮総督府を設置して、陸相兼統監の寺内正毅を初代総督に任命した。朝鮮総督は当初現役軍人に限られ、警察の要職は日本の憲兵が兼任した。
明治四三年(1910年)8月22日、韓国併合条約が漢城(現ソウル)で韓国統監・寺内正毅と内閣総理大臣・李完用により調印され、8月29日、公布され、日韓併合し、大韓帝国を植民地としました。