倭人は海の民?

日本は海洋国家です。
国土全体が海に囲まれており、排他的経済水域は世界8位を誇ります。
これは現在の国土がある程度確定した縄文時代から変わらない事実です。

航路は痕跡が残らないので、考古学、歴史学では見落とされがちです。
現代の歴史学界は、弥生時代において稲作文化を強調するあまり、本来の海洋国家の側面を軽視してきました。

日本付近の海流には、大きく分けて黒潮(日本海流)、親潮(千島海流)、対馬海峡があります。
これらの海流に乗って日本に渡ってきたものが海人の源流でしょう。

海の民
丸木舟のレプリカ Wikipedia

日本最古級の丸木舟は、鳥浜貝塚(福井県)から出土、縄文時代早期のものと推定されています。
縄文時代後期になると、桂見遺跡から出土した丸木舟は全長7mと日本最大級のものです。
国史跡の寺地遺跡(新潟県糸魚川市)からは、縄文時代晩期(約3,000年前)のスギから造られた丸木舟が出土しています。
弥生時代の史跡である登呂遺跡(静岡市)からは丸木舟や鹿骨の釣針、船形埴輪が発掘されています。

縄文海進の記事はこちら

倭人が海の民であるかどうかを調査、検証するのは考古学的遺跡が少ないため、史料から調べるのが良い手段だと思われます。

魏志倭人伝を読むと倭人は海の民ではないかと思える記述が多く見受けられます。
倭人というのは中国人が使った日本人の古称であり蔑称でもあります。
日本人自ら倭人を名乗ったかはわかりません。
『漢書』地理志で初登場し、『三国志』魏書東夷伝に倭人条と記載されています。

『漢書』地理志の中で、「東鯷人」という語句があります。
読み方はとういじん、とうていじん、などの候補があり確定していません。
❝會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歲時來獻見云❞
「会稽の海の向こうに東鯷人が居る。二十余国に分かれ、季節ごとに朝貢にやって来て献上を行ったと伝えられる」
「鯷」は魚片の文字を使っていることからも、「東鯷人」は海に関連した人びとという意味があると分かります。
倭人と東鯷人が同じ民族を表しているかどうかはわかりませんが、日本列島に住む人びとを意味していることは確かなようです。
中国人から見ると、日本列島人には海の民がいると認識していたことが推測できます。

魏志倭人伝にみる海の民

❝始度一海千餘里至對馬國・・・無良田食海物自活乗船南北市糴❞
始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に着く。・・・・良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。

❝又渡一海千餘里至末廬國・・・濱山海居草木茂盛、行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之❞
また一海をわたること千余里で末廬国に着く。・・・山海に沿って居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。

魏志倭人伝より

魏志倭人伝に記載された海の民の描写です。
海産物が主食で、陸路は無く、船を使って市場に行き来する生活をしていたことが伺えます。

❝男子無大小皆黥面文身❞
男子は大小の区別なく、みな顔や体に入墨をする。

❝夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾❞
夏后少康の子が會稽に封ぜられ髪を断ち体に入墨をして、蛟竜の害を避ける。いま倭の水人は好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。

魏志倭人伝より

黥面文身の記述があります。
会稽という場所は、現在の中国浙江省紹興市にあたり、越人の国がありました。
華南にあたる会稽は華北と違い沿岸部では入墨の風習があったといわれます。

魏志倭人伝は、倭人が越人と密接な関係があったとみています。
そして、会稽郡東冶県と日本列島または沖縄諸島と航路が開けていたとみるのが普通でしょう。
つまり、帯方郡から朝鮮半島の沿岸を経由して九州北部に至るルートと、会稽郡東冶県から九州南部または沖縄諸島へ至るルートがあったと見ることが出来ます。
九州北部の人びとと九州南部の人びとが居ました。
九州北部は倭人で、九州南部は狗奴国=熊襲ではないでしょうか。

弥生時代の準構造船

弥生時代、国内の川や湖の移動には丸木舟を利用し、遠方への移動は準構造船を利用していたとみられます。
移動能力が向上する帆船が登場するのは、2世紀から3世紀ごろとみられます。

青銅器に描かれた絵や古墳時代の船形埴輪から、弥生時代には丸太をくり抜いて造った丸木舟に竪板や、舷側板等を組み合わせた準構造船があったと考えられています。
準構造船の遺跡出土例はまだなく、赤野井浜遺跡(滋賀県守山市)などから舳先や舷側板の一部が出土しています。

弥生時代、まだ羅針盤のような方向を測定する技術は発達していなかったと想定できます。
遠方まで移動する場合、まだ方向測定技術や移動能力が低いため長距離を一度で航行できず、島や沿岸を見ながら移動していたとみられます。
魏志倭人伝の頃は、移動に帆船を利用していたことが推定できます。

島国日本列島の特徴

日本史アップデート」管理人作成

日本列島は山地が73%を占め、残り27%が平地です。
非常に山が多く平地が少ないことが分かります。
その少ない平地である盆地や平野に人が集まって生活をしています。
そして、現代と大きく違うのは大きな川の流域は大洪水が発生すると、住居や農地はことごとく流されてしまうので、人は住めなかったのです。
現代でも、台風や大雨で大洪水が発生して大きな被害が出ているのは事実です。
大きな平野や大河の流域に人が住めるようになったのは、土木技術の発展による恩恵です。
弥生時代頃の河川流域にある平野は、あまり人の居ない場所だったと推測されます。
吉野ヶ里遺跡などの弥生時代の遺跡は、平野部ではなく丘陵地域に多く見つかります。

このような地理的背景を考えずに、弥生時代に水田稲作が急速に普及したというのは、無理があります。
現代のように広大な穀倉地帯でたくさんの稲作を行っているという風景は、古代では考えられません。

狩猟採集生活が中心の地域では、海の民が大きなウェイトを占めていたと考えても不思議ではありません。

邪馬台国と海の民

纒向遺跡を中心とする古代大和の中心地であった奈良は、盆地であり山に囲まれた内陸地です。
吉備や山陰、東海と交易するのに使われたのは海運でした。
内陸の盆地にある奈良がなぜ海運出来たの?という疑問が浮かびます。
実は、奈良と大阪湾は大和川という水路でつながっていたのでした。

古代奈良湖と大阪

大和川には奈良湖がありました。古代奈良湖、古奈良湖、大和湖と言われる湖で縄文晩期から弥生時代後期にかけて存在しました。
生駒山地を横切って大阪河内湖につながっていました。

じゃあ、邪馬台国は畿内で決まり!となるかといえば、無理です。
海運の難所である瀬戸内海を準構造船で航行できるかといえば、無理でしょう。
海の民ではない畿内の人びとが、わざわざ朝鮮半島を経由して中国の洛陽まで貿易使節を送ることに必要性が感じられません。

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