聖徳太子(厩戸皇子)は何をしたのか

一万円札の肖像画にもなった聖徳太子が、実は創作された人物だったという風説が流行ったのは2011年頃のようです。

一時的流行で終われば、笑い話で済みますが、そうではありませんでした。

教科書の表記に影響が出ました。

つまり、聖徳太子ではなく、厩戸王(聖徳太子)という括弧付きの表現に変更になったのです。

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聖徳太子は実在しなかった説

聖徳太子は厩戸王であり聖徳太子という人物は存在しなかったという説が出回ります。

厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構だと主張するものです。

推古天皇の皇太子として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、日本書紀編纂当時の実力者であった、藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈が創作した架空の存在だと主張します。

しかし、道慈が718年に帰国してから720年に日本書紀が完成するまでに時間が短すぎることや、漢文として未熟な倭習が多く、16年も留学した僧のものとは思えない等、疑問点が多すぎることから、現在では非実在説は影を潜めました。

とはいえ、こういう非実在論自体は、教育界隈の反応がなぜか早く、教科書に影響を及ぼしました。

あえて議論を呼び起こして、表記を消そうと目論んだのかもしれません。

長い間、一般的な歴史教科書では、聖徳太子(厩戸皇子)という呼称が使用されてきましたが、彼の存命中にはその呼称は用いられていませんでした。

この理由から、例えば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度の検定版から、「厩戸王(聖徳太子)」に変更されました。

しかし、この変更に対しては、脱・皇国史観の行き過ぎだとして批判があります。

2013年3月27日付の朝日新聞によれば、清水書院の高校日本史教科書では2014年度版から、歴史研究者が指摘してきた聖徳太子虚構説が取り上げられました。

すなわち、従来、聖徳太子として描かれてきた人物像は虚構であり、フィクションであるとする説が流れました。

このため、一部の歴史家からは、聖徳太子という呼称の人物像の虚構性が指摘され、学術的に疑問視されるようになったのです。

そのため、中学や高校の教科書では、厩戸皇子(聖徳太子)については一切記述されないものが増えてしまいました。

聖徳太子は何をしたのか、その実在性について、神社伝承を混じえて説明していきます。

聖徳太子の出自

聖徳太子は、敏達天皇3年(574年)に、父の用明天皇と、母の穴穂部間人皇女の間に生まれました。

奈良県明日香村が生誕地です。

敏達天皇の没後、欽明天皇の第4皇子用明天皇が即位します。

用明天皇は、蘇我稲目の孫だったことから仏教を容認しますが、587年、在位2年で崩御してしまいました。

蘇我対物部の対立(丁未の乱)

仏教の信仰を巡って蘇我馬子と物部守屋の対立が激化します。

587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定しました。

馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国の守屋の館へ進軍しました。

大和国から河内国へ入った蘇我軍は、餌香川(えかがわ)の河原で物部軍と交戦し、双方合わせての戦死者は数百に上る戦いとなりました。
前線で戦っていた物部守屋が矢で射貫かれます。

総大将を失った物部軍は劣勢となり、最終的に蘇我軍が勝ちました。
排仏派の物部守屋が敗れたことにより、蘇我氏の朝廷内の地位は一層強まり、仏教の信仰が本格化しました。

崇峻天皇の悲劇と女帝誕生

丁未の乱後、蘇我馬子は泊瀬部皇子を皇位に就け崇峻天皇としました。

しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立します。

崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に命じ、崇峻天皇を亡きものにします。

推古天皇元年(593年)、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけました。

推古天皇、皇室史上初の女帝誕生です。

厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐しました。

数多く残る聖徳太子の伝承

奈良県斑鳩地域には聖徳太子の痕跡がたくさん残っています。

飽波神社と太子道

飽波神社は聖徳太子が創建したと伝わる古社です

聖徳太子が飽波葦垣宮に滞在中に祠をつくったという伝承が残ります。

そして、境内には、太子が腰掛けたという腰掛石が残り、神社の前を太子道が走っているのもその存在を語るものです。

このあたりの道を太子が斑鳩宮から飛鳥京へと通っていたということを太子道という名前がが表しています。

龍田神社と龍田大社

法隆寺建立を考えた聖徳太子が、龍田大明神に逢い「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立した、と伝わる神社です。

そして、龍田大社は少し遠いので、龍田神社の地に祠を建て、法隆寺の守りとしたのが始まりとされています。

さて、難波地域にも多くの聖徳太子伝承が残っています。

四天王寺

593年、造立が開始された聖徳太子建立七大寺の一つです

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものです。
四天王寺が推古朝にはすでに存在したことは考古学的にも確認されていますので、四天王寺は聖徳太子が関わった寺院であることは確かなようです。

丁未の乱の際、聖徳太子が、仏教の加護を得ようと白膠木を切って「四天王像」を作ったと伝わります。

鵲森宮

鵲森宮(かささぎもりのみや)通称、森之宮神社は、589年創建と伝わる元の四天王寺と呼ばれる古社です。

聖徳太子は物部守屋との戦いの戦勝を祈願すると、四天王を祀る寺院を建立することを誓いました。

589年、両親を祀る社である当社を難波の杜の中に建立しました。

太子自らが彫った四天王を祀る元四天王寺(現・四天王寺)を創建したと伝わります。

法隆寺再建論

現存法隆寺は、西院伽藍と東院伽藍によって構成されています。

西院伽藍とは、聖徳太子が「推古9年」の601年に斑鳩の地に斑鳩宮を造営した際に、隣接して建てた斑鳩寺のこととされています。

すなわち、寺名の斑鳩寺、改まり法隆寺となったと考えられています。

『法隆寺資財帳』によりますと、法隆寺は、607年(推古15年)に厩戸皇子によって創建されたと伝わります。

天智8年条には「干時災斑鳩寺」と見え、斑鳩寺と表記されており、翌年の天智9年条には法隆寺となっていることから、669(天智8)年、もしくは670年頃に法隆寺と改名され、以後、今日に至っていると考えられています。

法隆寺西院伽藍は、斑鳩寺(法隆学問寺)の後身として位置づけられている伽藍であると言えるでしょう。

塔(五重塔)と金堂が左右東西に並ぶ法隆寺式伽藍配置を有し、金堂には、本尊の釈迦三尊像、薬師如来像のほかに、百済観音像、玉虫厨子などよく知られた聖徳太子ゆかりとされる仏像・宝物が安置されていました。

一方、法隆寺の東院伽藍とは、聖徳太子と山背大兄王が居していた斑鳩宮の址、考古学的には「東院下層遺構」と呼称されている範囲に、天平時代となってから建立された上宮王院のことです。

『法隆寺東院縁起』によりますと、法隆寺僧の行信が斑鳩宮址が荒廃している様子を嘆き悲しみ、皇太子阿倍内親王(のちの孝謙天皇)に上奏したところ、皇太子阿倍内親王が藤原房前に命じて建立させたと伝わります。

救世観音像を秘仏として安置してきた「夢殿」と通称される八角円堂の正堂を中心に、四方を廻廊がめぐっています。

法隆寺の問題は、西院伽藍と東院伽藍に留まらず、現西院伽藍に先行する若草伽藍というもう一つの伽藍の問題を含んでいます。

日本書紀巻二十七天智紀の天智9年4月条には、670年年4月30日の夜半に法隆寺に落雷があり、法隆寺の伽藍は一屋も残さずに焼失したと記されており、法隆寺は670年には焼失したことになっています。

太子信仰を広めた親鸞

あまりにも広がった太子信仰のために、確証のないおとぎ話のような寓話が作られていき、さきほどの虚偽説がうまれる原因ともなりました。

9世紀ごろ、天台宗というお寺の宗教が強くなりました。

そのため、天台宗のお坊さんが四天王寺というお寺のリーダーになりました。

この時、天台宗が信じる終わりの考え方と、四天王寺で信じられている聖徳太子に関する信仰が一緒になり、「救世観音」という新しい仏さまが作られました。

この救世観音は、聖徳太子と同じだと考えられるようになったのです。

浄土真宗の親鸞は、聖徳太子をとても大切にしていました。

親鸞が作った歌(和讃)540首のうち、191首が太子についての歌で、太子を「日本の教えを伝える人」としてたたえています。

親鸞のお師匠さんである法然(ほうねん)は太子を特に信じていませんでしたが、親鸞は四天王寺の影響を受けていました。

1201年、親鸞は六角堂で100日間おこもりをして、そこで聖徳太子の夢を見て、その後に法然に会いに行ったと言われています。

ただ、親鸞が特に太子を信じるようになったのは晩年のことだと考えられています。

1214年に、親鸞は常陸国の稲田という場所に行き、太子の像をお寺に置いて、念仏を広めました。

鎌倉時代の終わり頃、浄土真宗で行われていた絵解きでは、聖徳太子の話に法然や親鸞が加えられていました。

太子を大切にする気持ちが強い東国で、この信仰をもとに浄土真宗の教えが広がっていったと考えられています。

いかがだったでしょうか

聖徳太子は実在しなかったという風説が、いかに不確かなものだったかというのが、よくわかりました。

偉大な聖徳太子が歴史から消されないように、見守っていきたいと思います。

最後に聖徳太子のお墓をご紹介します。

宮内庁が比定した陵墓ですから、これも聖徳太子実在を確かなものにしています。

磯長墓(叡福寺北古墳)

宮内庁により聖徳太子の墓に治定されています

考古学的にも聖徳太子の墓の可能性が高い古墳として知られています。

他に天皇陵4基等の古墳が築造され磯長谷古墳群として認知されています。

磯長谷では聖徳太子の他、敏達・用明・推古・孝徳天皇陵が伝わります。

「聖徳太子」という名前は、死去の129年後の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われています。

715年頃の成立とされる『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」とあります。

また、大宝令の注釈書『古記』(738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとあります。

このように、厩戸皇子は没後100年前後には聖徳王、聖徳太子と呼ばれていたことが確実です。

聖徳太子の出自

聖徳太子は、敏達天皇3年(574年)に、父の用明天皇と、母の穴穂部間人皇女の間に生まれました。

奈良県明日香村が生誕地です。

敏達天皇の没後、欽明天皇の第4皇子用明天皇が即位します。

用明天皇は、蘇我稲目の孫だったことから仏教を容認しますが、587年、在位2年で崩御してしまいました。

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