徳川家康は別人だった!?(影武者説を考える)

徳川家康・影武者・別人説
徳川家康像 Wikipedia

徳川家康に、別人説があることはあまり知られていません。
実は、かなり昔、およそ明治時代から唱えられていたようです。

しかし、竹千代→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康と改名したただけで、当たり前のように同一人物が天下をとったと考えられています。
歴史学者も歴史研究家も疑うことなく当然のように、家康は別人などではなく実在したと通説化されています。

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家康別人説を主張、言及しているのが、下記の方々です。

  • 『史疑』村岡素一郎 著(1902(明治35)年刊)
  • 『史疑 幻の家康論』礫川全次 著(2000年、批評社刊)
  • 『信長殺し、光秀ではない』八切止夫 著(1967年、講談社刊)
  • 『本能寺の変 431年目の真実』明智憲三郎 著(文芸社文庫、2013年刊)
  • 『三百年のベール』南條範夫 著(批評社、1998年刊)小説
  • 『三百年のベールー異伝徳川家康』南條範夫 著(学研M文庫、2002年刊)
  • 『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』副島隆彦 著(PHP研究所)
  • 『影武者徳川家康』隆慶一郎 著(2015年、新潮社刊)小説

有象無象による群雄割拠の戦国時代

戦国時代は実力のあるものが勢力を広げ、下剋上によって成り上がっていくことが多かったと言われます。

家臣が主君を倒して大名になる例が多発します。
島津忠良・南部晴政・里見義堯、陶晴賢、朝倉氏景、尼子経久、明智光秀等々。

特に、斎藤道三による美濃の国盗り物語。油売りの商人から身を起こし、戦国大名に成り上がったという話は有名です。(異論あり)
また、戦国大名の魁で下剋上の典型といわれる北条早雲もその一人です。

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最近の研究で名門伊勢氏の出自を持つことが分かってきましたが、成り上がったことは間違いありません。

そして、下剋上としては最も有名なのが天下人に成り上がった豊臣秀吉です。
あまりにもドラマや小説で描かれることが多く固定観念として定着しており、百姓の出で信長の草履持ちから成り上がったとされていますが、明確な根拠は無いようです。
しかし、今のところ出自に関する史料が無いことから、名門の出ではないと推測されます。
徳川が政権を握っていなければ、秀吉の出自や履歴も変わっていたことでしょう。

このように、家臣から成り上がった戦国大名がたくさん存在するということは間違いなく、その出自についても、何らかの改竄、隠蔽が行われる可能性があったものと思われます。

古今東西、今も昔も、権力を掌握した人物は、過去の自分に都合の悪い情報は消そうとします。
よって、都合の悪い情報は消される可能性がある、ことを前提に歴史を解明することは重要です。

『史疑 徳川家康事蹟』村岡素一郎 著について

徳川家康別人説のベースとなったのが、タイトルにある『史疑 徳川家康事蹟』です。
村岡素一郎氏の『史疑』は明治時代に書かれたもので、難解な文章であるため、それを解説した文章を引用します。

礫川全次氏が記した『史疑 幻の家康論』からの抜粋です。

榛葉英治氏の文章に、この本のポイントをズバリ指摘したものがあるので、まずそれを引用しよう。

「のちの徳川家康は、松平家とは血筋上、なんの関係もなく、駿府の賤民の出身である。人質になっていた竹千代は、通説にいうのちの家康ではなくて、ニ歳のときに、ある日、こつ然と何者かに誘拐された。その誘拐した者こそ、世良田二郎三郎元信(のちの家康)と、その一党である。世良田元信は、のちに松平家の当主元康の死後、元康にいれ替ったのである。家康の妻といわれる築山殿は実は元康の未亡人で、その実子信康は世良田元信に誘拐された竹千代が成人した姿である・・・」
<「家康をニセ者と断定した男」、『週刊文春』1963、4、15>

『史疑 幻の家康論』礫川全次著 批評社

さらに、礫川氏は、別人説否定学者の桑田忠親氏の文章を引用して、解説。

これは歴史家桑田忠親氏のものである。

つぎに、弱冠19歳で今川義元の先鋒を承って桶狭間の戦いに出陣し、尾張の大高城に兵粮を入れた松平元康のことは、正史の上では、徳川家康の青年時代の姿とみなしているが、実は、そうではなくて、三河の豪族松平元康その人なのだ。そうして、この元康を暗殺し、これに代わって岡崎城主となったのは、願人坊主あがりの世良田二郎三郎元信である。
この元信が、織田信長と清洲同盟を結び、徳川家康となって、後に天下の覇権を掌握する、というのである。そうして、この世良田元信の前身が願人坊主であったことについては、つぎのように説明している。
駿府の宮の前に住んでいた善七という者の娘のお万というのが、売りとばされて、七右衛門というささら者の妻となり、その間に生まれたのが、お大であった。このお大が宮の前に住んでいた頃、たまたま下野国から流れてきた祈祷僧の江田松本坊と密通して、男子を生んだ。これを国松といった。

この、ささら者出身の国松という子供は、生母のお大が再婚したあと、祖母のお万が源応尼と称して尼となっていたのに養育されたが、やがて、近くの円光院という浄土宗の寺院に預けられ、浄慶と改める。

浄慶は、祖母源応尼のもとにも帰りにくくなり、駿府城下をうろつきまわっていた。そのとき、又右衛門という悪者が、浄慶をかどわかし、銭500貫文(ママ)で売りとばした。
そのうちに、三河国の豪族松平の宗家である岡崎城主松平元康と駿府の今川家との関係を洞察し、永禄3年(1560)の4月、19歳のとき、同志を呼び集め、駿府の今川館に人質になっていた元康の幼児竹千代(後の岡崎三郎信康家康)を奪い取り、遠江に遁走した。
その5月、今川義元が尾張の桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、浄慶は、浜松城の井伊直教を攻めて勝ち、竹千代を尾張の熱田に護送し、織田家の人質とした。

『史疑 幻の家康論』礫川全次著 批評社

賤民だったかどうかはよくわからないですが、願人坊主だった世良田二郎三郎元信という人物が家康にすり替わった、というのが家康別人説です。

いつ頃世良田二郎三郎元信にすり替わったかというのは、副島隆彦著『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』に解説があるので、引用します。
これによると、桶狭間の戦い(1560年5月19日)の後のこととしています。

今川方の急先鋒であった松平元康(岡崎城の城主)は、自分の主君(義元)を失って呆然自失の中、自分の居城である岡崎城に帰り、立て籠もった。
このあとすぐの翌年(1561年2月頃)に、元々、織田信長のスパイ(間諜者)であった世良田元信という人物が、「岡崎三郎どののご長男(嗣子)の信康さま(この時2歳)を救い出して来ましたぞ。私どもも家来になりまする」と駆け回りまんまと岡崎城内に入り込んだ。
そして油断させておいて城主・松平元康を斬り殺して(同年3月頃)摩り替わった(成り変わった)。

その2年後(1563年7月)には、この世良田元信という男は、自分が摩り替わった松平元康から「家康」へと名をかえた。
その3年後(1566年12月)には、朝廷から「徳川」の姓を許された。
信長からの要請で有力公家の近衛前久が仲介した。

信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた 副島隆彦 PHP研究所

家康別人説への見解

家康別人説の疑問点は、家康が思い出話で語ったとされる、「銭五貫」で売られたのか、「銭五百貫」で売られたのか、という論点です。
銭五百貫は現在の価値で約1000万円で、銭五貫だと約10万円ということになります。
1000万円なら松平家の主君としての価値としては相応のものですし、10万円なら一般庶民ということになります。
村岡素一郎氏は著書の中で、「銭五貫」と書いていますが、「銭五貫」と記された史料は残っておらず、「銭五百貫」という史料しか見つかっていません。
残念ながら、銭五貫で売られたという史料は残っておらず、史料が見つからない限り、歴史学者を説得することは難しそうです。

しかし、築山殿と息子・信康が、信長と家康によって自害に追い込まれたことは、家康別人説を当てはめてみると、納得感が出てきます。
要は、すり替わった家康にとって妻子ではない赤の他人の築山殿と信康は殺しても良い、いや、早く亡きものにしたい人物だったといえます。

そして、家康の僭称や譜系についても、なぜ徳川に改姓したのか、なぜ新田氏が祖先として出てくるのか理由が分かってきます。
自分の世良田二郎三郎を譜系に紛れ込ませたかったとう意図が見えてきます。

その後、徳川家康別人説は、研究継続されているようには見えず、何だか闇に葬られているようにも感じられます。

Wikipediaを参考に自作

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