大化の改新 乙巳の変 (2) Reformation of Taika

中臣鎌足
『大織冠像』(カウンティ美術館所蔵)、室町時代の作。
藤原鎌足が半跏の姿で、息子の定恵・不比等の上段に座る。

大化の改新:乙巳の変(1)はこちら

中臣鎌足(藤原鎌足)の謎

中臣鎌足(藤原鎌足)について、まず思い浮かぶのが、出生の謎。
『藤氏家伝』によると大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)となっています。
また『大鏡』では、常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)となっています。
『日本書紀』に出生地は記載されていません。
最新のものでは、百済の王子・余豊璋ではないかという説が、関裕二氏の著書に記されています。
これはかなり信憑性の高い説で、要約すると、

  • 大織冠が贈られたのは余豊璋と中臣鎌足の2人だけ
  • 入鹿が殺された時、見ていた古人大兄が「韓人、鞍作臣を殺しつ」と残している
  • 藤原という突然変異が日本を牛耳り長年の日本を支配した
  • それまでの日本にない残虐性を持つ人物が、多くの殺戮を起こしている 等

詳細は関裕二さんの著作 『豊璋 藤原鎌足の正体』を読んでいただきたいので、ここでは記しませんが、面白い説です。
なんらかの証拠が出てきたら面白いでしょう。

中臣鎌足の出自が不明であり特定するのが困難だとしても、百済系氏族を祖に持つ人物である可能性があります。
そもそも、日本として不都合であるため出自が隠されたということはあり得ます。
出自を出すと日本にとって都合が悪いということは、外国系人物であるからというのがその理由です。

乙巳の変後、663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に日本は敗退します。
百済は滅んでおり、百済復興のために日本は挙兵したことになります。
なぜ滅ぶ前に挙兵しなかったのか不思議です。
中大兄皇子が称制になってから方針が変わったのでしょう。
三国の情勢が変わったとはいえ、それまでは百済を助けようとする素振りが見えません。
650年代には3回も遣唐使が派遣されています。
中大兄皇子が称制になり権力を掌握するまでは手も足も出せなかった百済救済が、称制後か斉明天皇崩御後に路線変更します。
いかんせん時間がなく準備不足だったのか、白村江の戦いで敗戦します。
中大兄皇子・中臣鎌足コンビが親百済派だったことは大いに考えられます。
百済系一派が鎌足・中大兄と組んでクーデター(乙巳の変)を起こし、強引に政権を乗っ取り、白村江の戦いを起こした。
そういう筋書きがあったのではないでしょうか。

藤原不比等と持統天皇の共通点

鎌足の出自について更に興味深い話があります。

持統天皇、光明皇后、県犬養三千代、更に、藤原不比等も百済系氏族に養育されていたのです。
藤原不比等は、幼い時、山科に住む百済系氏族の田辺史大隅に養育されていました。
それは不比等が「史」(ふひと)であったことが、『日本書紀』や『懐風藻』、『藤氏家伝』などからもわかります。
田辺史大隅は、飛鳥戸造の支配下にある百済からの渡来人で、安宿(あすか)に居住していました。
県犬養三千代と藤原不比等の間に生まれた女児の名前を「安宿媛」といい、河内国の「安宿」に基づいた名前です。
安宿は、大阪府羽曳野市飛鳥にある「飛鳥戸神社」のある地域のことで、百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造氏族の居住地です。
安宿媛は幼い時、この地に居住していた飛鳥戸造の首長に養育されていました。

そして、持統天皇も安宿に居住していたことが分かっています。
持統天皇の幼名は、鸕野讃良皇女といいます。
河内国更荒郡あるいは讃良郡は、『和名類聚抄』には「佐良良」というよみが記載されており、古くは「さらら」と読みました。
鸕野讃良皇女は、この讃良郡という郡名に基づくもので、飛鳥戸造のもとで養育されていたことになります。

このように百済系渡来人氏族一派が外戚となって天皇を動かしていく時代が到来します。
この人脈が、後に藤原の栄華をもたらすことになります。
この百済系氏族であった藤原氏の祖先は中臣鎌足です。
鎌足も百済系であったことは大いに可能性があります。

乙巳の変の首謀者は誰か

乙巳の変の首謀者として、描かれているのが中大兄皇子です。
中大兄皇子は、皇太子についていなかったか、称制になるまで権力を掌握できていなかったのではないかという説があります。

万葉集があばく 捏造された天皇・天智』渡辺康則著があります。
こちらも詳細は、渡辺康則さんの著作を読んでいただきたいので、省略しますが、天智天皇についての謎を万葉集が解読してくれるといいます。
結論を言うと、天智天皇は舒明天皇と斉明天皇の子供ではない。
天智天皇は、皇子ではなかった、という論説です。
中大兄は舒明天皇の嫡子とされますが、本当の名前は「葛城皇子」です。
『日本書紀』、『藤氏家伝』の中で、中大兄皇子とは呼ばれず、「中大兄」とあって「皇子」はついていません。
乙巳の変発生時、中大兄は大極殿にいません。
三韓の使者と対峙するのは古人大兄皇子と蘇我入鹿です。
この記事の語るところは、中大兄が有力な皇位継承者などではないということです。
中大兄は三韓の使者と組むか、あるいは便乗してどさくさ紛れの中で蘇我入鹿(著書によると蝦夷)を倒して逃走したのです。
興味深く賛同できる考察です。

もう一つ有力な論説が、軽皇子と蘇我倉山田石川麻呂が首謀者とするものです。
これは大和岩雄氏や遠山美都男氏が主張していて、中大兄は軽皇子の甥で、蘇我倉山田石川麻呂の女婿であったから、「軽皇子と石川麻呂の働きかけで、中大兄が謀議に加わり、初めて鎌足は中大兄と出会った」と推論しています。

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