倭の五王と宋書倭国伝

倭の五王とは

倭の五王
大仙陵古墳 Wikipediaより引用

倭の五王とは、中国の正史『宋書』倭国伝に記載された倭国の五代の王、讃・珍・済・興・武をいいます。
倭の五王という呼び方は、中国史観が入っていてあまり使いたい用語ではないのですが、通説では「倭の五王」というので、とりあえず使うことにします。

宋書倭国伝の現代語訳はこちら「古事記の神々」の記事を利用させていただきました。

宋書倭国伝を見ると、中国人が書いたので仕方ないですが、倭国を下に見た、番国扱いだということがわかります。
遠く離れた小さな国からわざわざやって来たので、名前を授けてやろう、という姿勢が中国の史書には一貫しています。

魏志倭人伝・邪馬台国などの記事はこちら

宋書倭国伝から読み取れること

この宋書倭国伝からわかるのは、以下となります。

  • 記紀には出てこない
  • 魏志倭人伝のような文化の説明がない
  • 年代が出ている。421年~478年
  • 倭王が5名出ている。いわゆる「倭の五王」
  • 朝鮮半島の国名が出ている
  • 東部、西部、海外の北部に倭の領地があった
  • 百済をめぐる高句麗と倭国の争い
  • 倭では漢字が読み書きできた
  • 朝鮮半島に国らしきものが出始めた

宋書倭国伝の和訳

❝倭國在高驪東南大海中丗修貢職❞

倭国は高句麗の東南の大海の中にあり、代々我が国に朝貢してきた。

❝髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授❞

421年(永初2年)、高祖・武帝は「倭の讃王は万里も離れている所から朝貢して来る。遠くからでも朝貢する誠意を考慮して官職を授けよう」と言った。

❝太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物❞

425年(元嘉2年)、讃王はまた司馬の曹達を派遣して上表文を奉り、特産品を献上した。

❝讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽❞

讃王が死んで弟の珍王が即位し、使者を送って朝貢してきた。
みずから使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と名乗り、上表文を奉って正式に任命されるよう要望してきた。
文帝は勅命を下して安東将軍・倭国王に任命した。
珍王はまた倭の隋ら13人に平西・征虜・冠軍・輔国などの将軍の称号を授けるように要望した。
文帝はこれらすべて許可した。

❝二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王❞

443年(元嘉20年)、倭国王の済王が使者を送って朝貢してきた。
そこで安東将軍・倭国王と任命した。

❝二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻❞

451年(元嘉28年)、使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事の称号を加えて、安東将軍は元のままにした。
ならびに上表された23人を将軍・郡長官に任命した。
済王が死んだ。
世継ぎの興王が使者を遣わして朝貢してきた。

❝丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王❞

世祖(孝武帝)の462年(大明6年)、孝武帝は「倭王の世継ぎ興王はこれまでと変わらず忠心を示し、我が国を守る外海の垣根となり、我が国の文化に感化されて辺境を守り、うやうやしく朝貢してきた。
興王は先代の任務を受け継いだのだから、爵号を授ける。安東将軍・倭国王と称号せよ。」と勅命を下した。
興王が死んで弟の武王が即位した。
みずから使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称した。

❝順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫❞

478年(順帝の昇明2年)、倭国の武王は使者を送って上表文を献じて、「封国である我が国は偏遠の地にあって、外の垣根の役割をしています。昔から祖先はみずから甲冑を身につけ、山川を跋渉し、ひとところに安んじて留まる暇はありませんでした。

東の方は毛人の55国を征し、西の方は衆夷(しゅうい)66国を征服し、海を渡って北の95国を平らげました。皇帝の王道は広く溶け込み、封土は広大です。
我が国は先祖代々宋国に入朝するのに時節を誤った事はありません。
わたくしは愚か者ではありますが、かたじけなくも先祖の偉業を継いで、統治する人々を率いて天極である宋国に帰順しています。
通う道は百済を通って船路です。

❝而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷❞

ところが高句麗は無道者で、百済を飲み込もうとして国境の人民を略奪し、殺害しています。
常に朝貢の道は滞って、我が良風を失わせようとしています。
貴国に行こうとしても通じたり、通じなかったりします。
臣下であるわたくしの父済王は実に高句麗が宋国へ通う道を塞ぐことを怒り、弓矢を持つ兵士100万、義憤の声を挙げて奮いたち、大挙して攻めようとしましたが、にわかに父王と兄王が亡くなって後一息で成功する時に、最後の一撃が出来ませんでした。
わたくしは国に居て喪に服しているので兵士たちを動かさないでいます。
こうして戦いをやめて兵士を休めて、高句麗に勝たずにいます。

❝至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王❞

されども、今こそ兵士を鍛錬して父と兄の志を全うしようと思います。
我が義士も勇士も文官も武官も力を発揮して敵と刃を交えようとも命は惜しくはありません。
もし皇帝の徳によって、我らを援護していただければ、この強敵をくじき、地方の乱れを収め、祖先の業績にも劣ることはありません。
「勝手ながら、わたくしに開府儀同三司を任命され、ほかの諸将にもみなそれぞれに任命されて、貴国に忠節をつくすように勧めて下さい」と。
そこで順帝は武王を使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に任命した。

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