継体天皇の謎

継体天皇は、名を男大迹王と言い、謎の多い天皇としても有名です。

有名なのが、王朝断絶説、王朝交替説です。

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王朝断絶説

継体天皇の皇位継承時、王朝が途絶え新王朝がたったというのが王朝断絶説です。

この中に、ヤマトに入れず戦闘状態にあったというのがありますが、この時期にヤマトで戦争の痕跡はありません。

そして、地方豪族が皇位を簒奪したという説に対し、この時代に武力で奪うことができるのか疑問です。

崇神や仁徳朝の時代に比べて天皇による皇位継承が確立しているのがこの時代です。

それも物部氏や大伴氏など大物の豪族が大臣として存在している中、急に武力で天皇を簒奪するのはほぼ不可能です。

紛争、抗争以外のなんらかの事情で血縁が薄くなった可能性はあると思います。

しかし、雄略天皇の粛清によって、他の皇族男子はほとんど残っていなかったとみられます。

遺伝学、疫学的観点で血統が途絶えそうになることは考えられます。

現代でも偶然が重なり男系の後嗣が減り、後嗣継承問題が発生しているのは同じことです。

天皇が急死してしまい、近縁の皇族に拒絶されたため、やむを得ず遠縁の皇族を探したということでしょう。

そして、継体天皇は仁賢天皇、武烈天皇の系列から皇后を出していることからも、皇位が継続していることがわかります。

王朝が交代したら、あらゆるものが一新されるはずで、とくに姻戚関係は改められるでしょう。

これらは、戦後流行した皇国史観の排除から出てきた”仮説”です。

参考とはなる説ですが、すべて仮説の域を出ず確証がないため、最近これら仮説は後退しています。

こちらを見るとわかるのですが、継体天皇について福井県に多くの伝承が残っています 継体天皇として即位する前の男大迹王としての伝承地が福井県の三国地方です 神社伝承から、継体天皇の出自が越の国・福井であることがわかります。

息長氏が皇位を簒奪したのか

継体天皇は、出自である息長氏が皇位を奪ったのではないかという説があります

『古事記』に、袁本杼命を近江国から上京させ、手白髪命と結婚させて、天下を授けた、とあります 岡田精司氏等が主張した、近江国坂田郡の「息長氏」が皇位を簒奪したというものです。

しかし、息長氏が皇位を簒奪したのであれば、その後の皇統に何らかの痕跡が残るはずですが、そのような形跡はありません。

息長氏は継体天皇の即位によって、恩恵を受けたことはあっても、皇位を簒奪するような実力はなかったものと思われます。

継体天皇は有力豪族の越前の三国氏、近江の三尾氏、そして急成長した息長氏の力を借りて即位しています。

それに、近江に継体天皇の伝承がほとんど無いため、論拠が薄い説であることがわかります 逆に、女性天皇を擁立するのではなく、男系天皇の継承が重視されていたことが読み取れます。

近江や尾張の血縁

それに対し、継体天皇の后妃をみると、近江出身者が多くみられ、古事記では、生誕地は、近江としており、越前とする記述はありません。

継体天皇は、近江北部や越前の三国氏、三尾氏、東海地方の尾張氏などの血縁関係を使い、越前、美濃、尾張とベルト状に勢力基盤を拡大していったものと考えられます。

さらに、外交面では、越にいた頃から百済と関係を持っていたと言われていて、天皇になってからも百済との外交関係が続きました。

そこに起こったのが新羅と磐井が同盟を組んで継体天皇に逆らった磐井の乱でした。

しかし、新羅が磐井と同盟したという記録は朝鮮半島にもありません。

断夫山古墳(だんぷさん)

尾張氏の首長墓と考えられる大型の前方後円墳です。

名古屋市熱田区の熱田神宮の近くにあり、墳丘長は約150メートルで、愛知県では最大規模です。

古墳時代後期6世紀前半の築造と推定されます。

南方にある白鳥古墳、現存しませんが北山古墳、北方の高蔵遺跡とともに首長墓群を形成していたと推定されています。

かつて、ヤマトタケルの妃、宮簀媛命の墓とみられていました。

しかし、被葬者は、尾張連草香か、あるいはその子の目子媛であるとみられます。

継体天皇は、この実力者・尾張氏の後押しで天皇に擁立されたのです。

そして、天皇の外戚となった尾張氏が、6世紀前半に勢力を拡大したものと考えます。

尾張氏の同系に海部氏、大海部氏がいます。

名前からも海人出身の氏族であることがわかります。

今城塚古墳と太田茶臼山古墳

今城塚古墳は、大阪府高槻市郡家新町の住宅地に点在する前方後円墳です。

墳丘長は190m、全長350mという大規模古墳です。

三島野古墳群に属しています。

今城塚古墳は、継体天皇陵であるという説が有力です。

ただし、宮内庁は、今城塚古墳から1.3km西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を、継体天皇陵に治定しています。

今城塚古墳からは、様々な埴輪が出土しています。

さて、このように継体天皇を見てきましたが、王朝断絶、王朝交替という痕跡はありませんでした。

越に君臨した越前王が、天皇候補を探していた大和政権によって白羽の矢が立ち、天皇として抜擢されたとみるのが自然です。

継体天皇擁立に関わっていた尾張氏は、持統朝で記紀からその功績を隠されたというのが真相でしょう。

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